日本列島やり直し論?

マスコミ戦争の時代 と マスコミの功罪 (3)


 日本列島・やり直し論 ? 

 <追記>

 


 ますます遠のく政治主導 ?

 官僚・公務員改革の問題に先立って急浮上して来た、国民を沸き立たせる、国会議員・削減案

 この削減案というのは、どれだけの規模のものなのだろう? 国民にも実質・実感として伝わって来るもので、その削減の対象や内容
も、ただ数値を削るというだけではなく、 提言者側(=内閣の構造)をも含めた、未来の体制を見通した中で検討されるものなのだろうか?
 何より、その
削減の目的が、国民の未来のための利益に還元される見通しと確信を持ち、大方の枠が出来上がった中で討議される前進的な提案であればともかくも…巷(ちまた)の声に押された…私憤的な・主体性のない中で…にも拘らずそれによって生まれる利益も、当の国民には関与しない、公務員・官僚にもなんの影響も及ぼさない素通りのフリー・パスで(ただ乗りで)…ひたすら、途絶える事のない・際限のない官僚政治から生まれる莫大な借金の穴埋めに回され…
 しかも、国民にはまるで消費税導入の初年度でもあるかのような騒ぎの中で更なる
増税案が組み込まれ…経済の循環には全くといって良いほど貢献せず政治主導はますます遠のく…という事であれば…これはいったい何なのだ、という!? 

痛みを伴う社会保障改革??

 1000(余)兆円とか言われるこの多大な借金も(=国債発行残高・2011年現在)、今度の大震災には直接関与しない、その大半がすでにそれ以前からの積み上げから来るものであり…それを大震災のせいにしてカムフラージュし、増税の理由・目的の一つとし国民を煽(あお)るなど許される事だろうか ? もし、それが許されるなら、政治など必要ないのでは !? やはり、そうなった原因をまず突き止める事こそが筋であり、政治ではないのか…!? 
 (どんなに大きな震災であっても、せいぜい、一桁か・二桁。数年前には、800兆円であったのが、今では、1000余兆円にまでふくらんでおり、更に・更に増えて行く…!) 

 裏事情の判らない国民
の中にも…こういう時(大震災)であれば、増税は仕方ないだろうという声が聞かれるけれど…これらはすべて、一時凌(しの)ぎの官僚政治による心理作戦の一つに過ぎないのであって… 

 長い間使われてきた「痛みを伴う社会保障改革」とはどういう意味だろう? 
 国民にさらに負担を強いる事が何故、
「改革」と呼ばれるのだろう? ただの値上げとしか思えない。改革そのものの意味と目的が根本から違っているのでは? 年金側・医療側の立場を保持するため、としか思えない。 一家の主が自分のやり方のために借金を作っておきながら、それをさらに家族に強いるというのは一般によくあるいつもながらのやり方であり、何故、そういう事のためにわざわざ政治家が必要なのだろう? それらは改革でもなんでもない…土台はそのままのそういう事の繰り返しが、今のような莫大な借金を生んだのでは?
 
 先のあの…さまざまな
税制度をそのままに、
何の改革もなされないまま、消費税を導入した初年度の…そのツケが、今になって回ってきたという事に気付かない…それどころか、それをまたさらに…再び繰り返そうとしている!

 もちろん、消費税の導入そのものが悪いのではなく、
「すべての技には 時があり」と言われるように、それはそういう時代を迎えていたのであり、施行者だけの罪ではない…
 要は、そんな実験段階にある新制度に対して、後継者の私たちが、さらに試行錯誤を重ねながら理想的姿に仕立て上げるという努力を怠った、という事であり…

 こういった古い感覚の官僚政治の
マインド・コントロールのオンパレードに、今日までの長い間、私たち庶民は完全にはまり込んできた。 国民には全く身に覚えのない、官僚主導によるこれらの流れを早く変えなければ、借金は増える一方だ!! 
 あの
大震災についても、理屈は全く同じとは言えないだろうか。
 これらは、現場を無視したすべての結果であって…それにも拘らず、後手・後手作戦にばかり投資する。

 海外で起きる「テロ」や「内部紛争」の発端も、理屈としては同じであり…日本人の細やかな心遣いが、それらをとりあえずカムフラージュして来ただけだ。

 いや、むしろ…なまじそんな枝葉の(国民による)心遣いがなかったら、(官僚主導による)こんな莫大な借金も生まれなかったに違いない国民の中途半端な心遣いが逆に、グローバル社会への前進を妨げ・矛盾を生んで行く。
 
 過去とは違い、日本の経済史上、また、あらゆる業界における集大成のこの時
…そんな中に浮上したこの、(現場を無視した)『消費増税案』(=応急処置案)には、極力慎重な構えと決意で臨むべきだろうと、私は思うけれど?

 増税(新案)のたびに混乱を来すのは、土台(出発点)がしっかりしていない証拠 ?


 (後にも先にも)全体(国家)としての黒字赤字のバランスだけを重要視する指導者官僚政治。 とりあえず外には見えないし…昔ほどには露骨で・単純ではないけれど…まるで、現代版全体主義・金力主義のような。
  
 表向きには…強力?な徒党を組んで(=○△党合意・○□党体制…)、
マスコミを含む各界の首脳陣を引き込み立派なタイトルを掲げ・協力を呼びかける…
 そして
その裏では…党首・執行部同志が…国民そっちのけの中で…あの談合と何が・どこが違うんだ? といったような取引きのような・駆け引きのような事ばかりを繰り返し…一日でも長くと、現状維持に躍起となり…一方では、主権奪回に躍起となる…(かと言って、同床異夢というほどの志さえも見られない…)
 
 しかし、それには
プライドが許さないと思う人たちもいるだろう…そういう人たちには、その場を去ってもらう(離党)しかないという…これが、昔から繰り返して来た、日本の政界(=官僚主導)の実態だ。

 あの…国民の圧倒的多数によって成立した『郵政民営化法案』(=国鉄改革と共に実質・本格的公務員改革の先鋒)。 
 にも拘らず…現・与党(民主党)によって頓挫した(=「見直し」に切り替え・軽視された)。
 そして今、その与党によって打ち立てられた
『消費増税案』も、反増税議員抹消・反増税国民を押し退ける中で、その
現・与党によって成立しようとしている…

 そしてさらに…
現・与党によって勧められる公務員改革案を飛び越えた国会議員削減案」 同じ立場にありながら、何をもって・何を基準として相手と自分との価値評価を下すというのだろう。

 現場を無視し、イデオローグばかりを生み出す社会構造。現代ではこちらの方に、より厄介な問題が多く潜んでいるのかも知れない。
 組織・官僚に乗せられた事にも気付かず政権交代を賞賛した、私たち国民世論。
衆愚政治」の始まりなのかも知れない。 
 一個人(財務省)のために何かの保証人にでもなったような…まるで、サラ金利用感覚そのものといったような… 結果、その両方(官・民=国家)を失ってしまった…などという事のないよう、単なる目先の経理感覚ではなく、もっと家族感覚で(=一家の主として、総てに目を通す)冷静に取り組んでほしい。

 ネットの時代(=
マスコミ戦争)を迎え、裏事情丸見えの日本…にも気付かず、目先の国内事情(=官僚政治から生まれる借金)にしか目が届かない為政者の悪循環を、海外(アメリカなど…)ではどう捉えているのだろう…もう、これ以上利用され・振り回されないよう、ただ・ただ祈るばかりだ。


 あの、何次にも渡る事業仕分けにしても…
 その目的とするものは何だったのか…!? 初めから
自然消滅を予測した形式上だけのものだったのか、とさえ勘ぐってしまう。 事業仕分けが終了するたびに発せられた、

 「これらは何回やっても、
焼け石に水…問題はここにはない。」

 とでも言いたそうな、
マスコミ報道。また、事業仕分けの完全終了宣言?がなされ、その役職を解かれた時の担当議員の方たちの、それをスンナリと受け入れた時の表情。今にして思えば…これらは全て国民に対するパフォーマンスだったのか、とさえ思われても仕方のないような…! 
 結果、残されたものは大きな疑問だけだった、という事にでもなれば…政治はますます、
停滞・混乱・悪循環の中をさまよい続けるばかり、という事にはならないだろうか。
 
 振り返れば…あの中途半端な
事業仕分けそのもの(=しっかりとした○年計画ではなく・単なるお義理の○ケ月計画)が官僚主導だったのかも知れない…(カムフラージュ?)


 思うに…日本の場合、「公務員」というのは、学習の延長(公務員によって作成された公務員試験)によって得た生業(なりわい)であり…
 
国会議員(地方議員も含めた)というのは…少なくとも社会生活(現場)を体験し、その中で得たもの(=精神力・指導力)を自らの武器とし・エネルギーとして生かして行く、国民によって選ばれた、広い意味でのリスクを伴うなりわいだ(=現場主義)。

 (ちなみに、私たち庶民の感覚でいくと…一言でいえば、衆議院は『正統派揃い』、参議院は『個性派揃い』といったような感があり、どちらも簡単には評価出来ないものがある…)
 
 未来はともかくも、現時点において少なくともこれくらいは認識しておかないと…官僚主導(=机上主義)にある今の日本の状況では(いや、日本に限らない…今や世界の現象
!)、私たちは本当にとんでもないところに放り出されてしまうような気がするけれど…どうだろう?  

 国会議員・地方議員が起こすさまざまな不祥事も…元はといえば、すべては公務員によって作成された特典・特待制度を利用する中から生まれる言動であり…その良し悪しはともかく、根源には大抵の場合、官僚が潜み・絡んでいる場合が多い。

 『どっちつかずの中間は必ず弱体化する』という…(官僚主導? 政治主導?)再臨のキリストのみ言(ことば)が改めて浮かんで来るような、そんな今の国会の状況だ。

 官僚政治から生まれるその
ツケには、あまりにも膨大なものがあるように思われる…!!

  

 現代では、東京への一極集中が一段と高くなり、有名人著名人の出身地を見ても、初代はもとより、二世・三世に至るまでのほとんどが、異常な程に「東京に集中」している。

 そして…その流れに沿ってか、全国的に広がりつつある
、地方産業の衰退・休業・廃業・廃店民家の空家・廃屋これも、一種の災害に等しい。

 これらはその家主が、それを売却とか財産放棄をしない限り…また買い手が見つからない限り…また店舗にしても、休業と廃業は違うのであり…空家は廃屋とは違うのであり…例えば『固定資産税』などは、そのまま納税されているわけだから
役所に与える影響は少なく、これらの窮状に気付かない、という事だろうか? 
 一時盛んだった、
二世帯住宅の建築も…今では、大きな建物の一角に灯りがポツンと点いた家が多くなり、家屋全体が明々としたお宅などほとんど見かけない、といったような。 

 ちなみに、
固定資産税とは何だろう? 
 肝心の一般庶民には、しっかりと把握されていない…その存在さえも知らない人たちが、ゴマンといるそうだけれど? 所有権…跡目問題(相続争い)などを防ぐために? 
 例えば土地の購入をして・新築(含・分譲マンション)をして初めて知るという人たちも、ゴマンといるとか…!? これらは支払う側にすれば、毎回・毎回の社会保障(年金・医療)と何ら変わりない…たとえ一度たりとも・未納など出来ないのだから
!
 
 また当時、「減反政策」により、田畑を『有料駐車場』に切り替える農家が沢山増えて行った…しかし、地方人口の減少・高齢化社会を迎えた今、車の利用者が減少して行く中で、「空き駐車場」があちこちいっぱい増えている。つまり、同じ土地でも、ただの敷地と・駐車場(営利)としての敷地では、固定資産税率が違うのである。これも、今後の厄介な問題だ。

 もっともこれは、その良し悪しはともかく、海外の先進国にも存在する税金だそうだけれど…将来的に、
「消費税」との因果関係?はどうなるのだろう…?


 他にも…贈与税・相続税…これだけをとっても、複雑で・難解で ! ひたすら役所側のために?としか思えないようなあらゆる場合・状況を想定した、一寸の隙もない規律・法律が細々(こまごま)と設定されているそうな
 というよりも…あくまでも(表向きには)国民のために設定された、そんな細々とした規律・法律・税金が…逆に、国民の膨大な情緒的・物理的負担を生み出すという
、悪循環 ! 資産によっては、毎年・毎年の申告…

 贈与税・相続税・手数料・さまざまな経費のために、一生分の財産とエネルギーを使い果たした…などという話を、よく聞く。
 役所・官僚としての営利は絡んでいないのか…!? これらはもちろん、これらの税に限らない!

 
ちなみに先日、ある弁護士さんから「法律問題」を聴くチャンスに恵まれた。 
 聴く前と・後では…私の中にあった先入観・固定観念・一般常識のようなものが、ガラリと崩れ落ちたような。

 確かにそうだ、と思うところは多かった。
 普通、私たちには、例えば
相続問題などは、「極力・民間委託(法律相談所)をしないで・役所を通して解決する、裁判などは最後の手段」という認識があり、常識化されたようなところがあるけれど。
 
 しかし…いざ現場に立つと現実はなかなかそうは行かず、必ずといって良いほど、有利な立場と不利な立場の人間が生じたりして…役所間での解決は無理で…結果として、経費の面でも、役所と法律相談所との二重払いになる事が多い。「初めから民間委託にすべきだった!」…そんな話は、ゴマンと聞く。 これには、庶民の日頃の勉強不足・社会常識の欠如の問題があるとしても。
 
 例えば…
相続は「戸籍よりも、血縁を重視する」そうである ?  しかし…「生みの親より 育ての親よ」 「遠い親戚より 近くの他人」 という言葉もあるように、相続…に限らない…世の中には、血筋よりも・の方が優先される事柄がいっぱい在りで…良くも・悪くも、一筋縄では行かない事が多い。

 役所というのは一見、良心的に思えるけれど…またその立場上、やむを得ないものがあるとしても (=一つ・一つの現場に対応してはおれない?)…
よりも、血縁の方に確実性(税収)があるからなのだろうか。

 (
弁護士も仰っていたように) この世というのは、時代がどんなに進んでも (=デジタル化されて行っても)、人間である限り、アナログの世界は消えないし、変わらない。
 結果として、役所の方がよっぽど合理主義的に思えたりして…!? (=難しい問題は民間委託に丸投げし…!?) 

 

 ともあれ、労働意欲を削
(そ)ぐような、日本の複雑怪奇?な税金制度!
 それらを(現場を)把握していない、庶民のあり方…官僚のあり方…

もはや、メディアの力なくしては!!

 「東京の人は冷たい」と言われる。これはある意味、カッコいい言葉として使われる場合もあるし(=お節介・過干渉ではないという事で)…そんな東京が好き、という人たちも沢山いる。
 しかし、私たちの世代が憧れた頃の東京(粋な・江戸風な)…また、一つの地域性・個性として捉えるには、今の東京はあまりにもデッカイ
! 特にこれからの若者たちに与える影響力(責任感)は、大きいと思う。
 何より、地方状況に負けず・劣らずの、急速な温暖化に・高齢化
。 

 
『智恵子抄』の詩にもあるように(=高村光太郎作・あどけない話)…これでは人間(日本人)として暮らして行く意味も・生きて行く意味も、ますます判らなくなってしまう
 

 思えば…国民にすれば、こんな問題こそ、マス・メディアの心強い先導・活躍が欲しいのに、今のところ、全くといってよいほど目にもしないし・耳にもしない。 何故だろう ?

 (地方を一段下に置いたような)中央局…地方局…のあり方にも、問題があるのかも知れない。
 

 ともあれ、特に
地方の若者たちの新しい未来のためにも、これらの難問・難題の解決は、もはや、マスコミの力なくしてはあり得ない気がするけれど…どうだろう !?


 そして…そんな田舎に取り残された、高齢者の実態を知ってか・知らずか…

 「今の
年金制度では、高齢者が得をして、未来の若者たちが損をする。」

 という…当の一般庶民にはピンとこない、
年金支給額の比較問題騒ぎ。 地方では若者たちの存在そのもの(小・中・高校生徒数の減少等も含めて)が危ぶまれるという状況下で、いったい、誰のための格差論なのだろう…!?

 政府は・
マスコミは…あの、自らをも含んだ消えた年金記録問題騒ぎ「解体までに追い込まれた社保庁の実態をどのように捉えて来たのだろう !? 

 
「官」と「民」の年金制度の違いから生ずる、「支給額格差の問題


 昔は、公務員には『恩給制度』(=今の退職金・共済年金等々…)というものがあって、この、はるか彼方にそびえ立つ恩給こそを、人生の目的とし・誇りとしている人たちが沢山いた。

 そして、湿っぽい「年金話」になると…

 『やっぱり、公務員でなきゃあねえ…』

 と…終りはいつもこの言葉で締めくくられ、話はそこで途絶える。これは身内の
(元)公務員自身が語っている事であり、また沢山の当の公務員の方たち自身の方から(誇りをもって)発せられる言葉であり…地方においては、未だこの(聖なる?)言葉を耳にする。 民間企業が弱くなった今、地方だけではないのかも知れない。 究極の官僚に至っては、その年金さえも物の数ではないという…! しかしこれが、今でもなんら変わりない、地方の実態なのだ。社保庁同様その『名称』が変わっただけなのだ
 

 そして、日頃の
マスコミ報道も…この聖域に踏み込むような事は一切なく、話題もきれいなほどに一方的で(厚生・国民…のみ)、これらの根本問題を耳にする事などはほとんどない。水を打ったようなあの静けさは、こんなところに(マスコミの報道姿勢)その根本理由が隠されているに違いない。

 
 思えば…「東電の電力料金値上げ問題」も「公務員・官僚の(昔は毎年だった)定期昇給・ボーナスの支給等々」も、私たち国民にとっては同じ感覚・理屈なのに…
 何故、後者には国民は全く関与しないのだろう?
 国・自治体を問わず、また結果報告だけでなく、それらを毎年の予算案の中に組み入れまずその段階から討議し・決議し・公開すべきではないだろうか(…なかっただろうか)。 
 そもそも、この(毎年の)「定期昇給」というのはなんだろう? 民営機関とは一線を画すこの「習わし」には、どんな起源と由来が隠されているのだろう? 「定期昇給」というのは、民営機関の大部分ではとうの昔に「死語」となっている言葉だ。

 また例えば、公共機関での「毎年のボーナスの支給額」
の問題にしても、誰が・何を基準として取り決めるのだろう? 「官」と「民」の「年金格差」は、制度そのものに加え、この「ボーナスの支給額」が大きく絡(から)んでいる、とある専門家から聞いた記憶があるけれど? 一般業界では「正社員」が激減して行く今、そのボーナスの支給・受給さえもままならないという、このご時世に…! 

 他にも…一般社会・各業界に見合った、役所(各部署)の「勤務体制の問題」
 
 例えば、年中無休が大半を占める観光業界
への対応は万全か…一律・週休二日制ではなく、極力・家族感覚でもってそれぞれの現場に対処した心配りがほしい気がするけれど、それらへの役所の対応を、政界・マスコミ業界はどう監視し・捉えているのだろう…!?

 あの旧・農林年金にしても(=現・厚生年金に移行部分と・基本の国民年金と・特例年金新設部分の三階建て?)…支給額的には公務員には恐らく遠く及ばないとしても、これも公務員同様、自分たちのための制度であり、肝心の組合員(准組合員)には関与しない、(職員)独自のものだった。

 ここ数年の日本列島、あそこまで年金問題に惑わされ・振り回され…未だ解決の糸口が掴めない・完全とは言えない・格差・不正を残したまま…にも拘らず、それに懲(こ)りない官僚の正体とは一体、何だろう
 (私も若かりし頃、当時の地方官僚と思<おぼ>しき人たちにさまざまな言葉・条件でもって誘われた記憶がある…△△へ行かないか? 月額○○…円でどうだろう? だとか…<笑> のんびりとした時代だったとはいえ…)
 根深いものがあるとはいえ…国民は、本当にどこまで今の緊迫した日本の情況を理解・把握しているのだろう…!? 
  もちろん、気付いている人たちも世の中にはゴマンといるけれど…それぞれが・それぞれの立場で、言うに言えないという…それどころか、当の公務員の人たちの中にも複雑な思いで日々を送っている人もいるのかも知れない…公務員といってもその中身はさまざまで、(聖域内とはいえ)そこにはそこの、また違った格差のようなものが存在するだろうから。

 (私たちは気付かないけれど…「報酬額等待遇の問題」と同時に、「公務員という任務」に対する…特に地方の人たちの中には未だ、「士農工商時代」? の感覚のようなものが残存している…といえば大袈裟だろうか。
)

 もちろん、公務員の世界に限らない、完璧な民間運営でない限り(そんな官僚の干渉しない世界など存在するかどうか…)、この年金問題は全ての業界を対象とした課題として検討すべきであり…それが本当の平等社会というものであり…金額(支給額)の問題だけではないと思う。何より、
未来を背負う若者たちのためにこそ!

 また、今のこの年金に限らない、強制社会医療保険(=国民皆保険)直接税等々、あまりにも多種多様な税金体制が将来的にどう展開して行くのか…消費税の導入によって、緩和されて行くか・依然としてそのままなのか…
 また例えば、
直接税間接税として消費税に移行されて行くか(=徐々に減額→公務・諸業務の簡素化→現場化・実体化→公務員削減へとつなぐのか)…等々、何も判らない…しかも、その消費税までが、すでに中途半端な形で導入されている現状…何一つ、討議されないという現状

 
(再臨のキリスト論=『どっちつかずの中間は、必ず弱体化する』)

 年金制度のなかった時代はおろか…未だもって曖昧な…特定の人たち(=官僚)だけが守られたような中で生きてきた、高齢者…そんな
比較しようのない社会状況の中で飛び交う、無責任なこれらの「比較論」。 
 
「未来の若者たちが損をする」というのは…抜本的改革無視した、あくまでも現状維持による場合の机上の推論であり…
世の中の状況が違ってきたからといって…突然、現場の高齢者を責め立てても、戸惑いしか残らない。案の定、高齢者による犯罪・事故が増えつつある今、物理的課題以上に、精神的課題にはあまりにも大きなものがあるという、一つの証しではないだろうか。

 「何故、たったこれだけの年金受給が、未来社会を圧迫するというのか !?」

 と、不思議がる高齢者は多いはず! ゴマンといるに違いない。もっと、根本的課題に目を通すべきだ


 消えた年金記録問題騒ぎよりも、21世紀(世界は 一家族)の今そんな
不健全な制度格差(=官民格差)そのものを無くすべきなのだ。


 そして…そんな日本の情況であるにも拘わらず…『医療』という、非生産的・後手の公共機関が…「日本の素晴らしい制度!」と称され、周囲の批判に惑わされる事なく、びくともしない、強制国民皆保険制度(膨大な一極集中的目的税)でもって支えられ…

 にも拘らず、その
中身の分析もなく…不足・不足ばかりが唱えられ、施政の中心・トップに置かれ、聖域化され尊重される風潮、矛盾。こんな混乱している時代に、「素晴らしい!」などという言葉が発せられるという事自体がおかしい、世の中の現実が判っていない証拠とは言えないだろうか。

 昔は…「更年期障害」(成人病とも…)と呼ばれ、その歳を迎えると、それぞれ個々の問題として・自然の成り行きとして当然のように受け止められ、
自発的に医療を求めていたものが…

 
今では…「生活習慣病」と、その呼び名を変え(この名前自体は医学の進歩によって与えられた、的確な呼称であると思うけれど)、「一億総病人」(糖尿病・飽食病・ガン…)として…年齢を問わない…個人の事情・症状の有る・無しに拘わらず…広く、社会問題として当然のように検診義務化され・制度化される風潮…仕掛けておいて・打ち落とす…といったら乱暴だろうか。 

 これらは…例えば
企業(受診者)によっては…
 その時期が近づくと…本番(検診)はもとより、まず、検診の準備(=受診予約者の取りまとめ・手続き・予算の確保…)から取り掛からねばならない…特にサービス業(さまざまな団体産業も)などでは…(大きな検診車が乗り付けるのだから)お客とかち合わないよう…受診者の勤務時間を調整したり・プライベートの時間を削ったり…と、たったその一回・一日だけのために、さまざまな問題を整えなければならない…(毎年々々の確定申告と同じ)…経営者の心を悩ます・検診対象者の心を悩ます、毎年・毎年の物理的にも・精神的にも
大変な行事・習わしの一つになっている。
 もちろん、個人の受診者にしても、この大変さは同じだ。これが大方の、一般庶民の本音ではないだろうか。

 しかも、問題はそのあとで…つまり、一度掴んだ検診者はもとより、その検診に引っ掛かった人たちは…以後、まるで
「顧客」のように扱われ、一般企業感覚営利感覚でもって物事が進められて行く…! 

 もっとも…例えば、若者たちの間に広がる「危険な薬物飲用の有・無」 「さまざまな飲料中毒・習慣の有・無」といった特別の事情のある場合の検診などは別問題であるとしても…しかし、これにしても、
悪循環…後手・後手作戦の一つである事には違いないと思う。

 他にも、例えば…
 
『生活保護受給者』の…その前提とする条件と受給目的(強制的)受診の奨励医療機関とのつながり(=癒着)。 
 この現場の実態
盲点…与党にしても・野党にしても、把握している人たちはどれくらいのものだろう。


 日々の新聞やテレビ番組を見ても…健康や日常生活に関するさまざまな分野の専門家の人たちが、まず何より「事の前・罹病前の姿勢」「食生活・運動・ストレスの解消・経済観念」いざという時の自分力…こそが大事(=健康のための基本)であるとして、それらを生活の中に溶け込ませ、先手でもっていろいろな・さまざまな形でアドバイスしてくれるのに対し…

 国民皆保険制度に守られた公共機関には、そうした動きはほとんど見られず、定期検診の奨励・罹病後の定期的診察
薬品投与…と、基本的には極めて事務的・官僚的で…患者との間にも、どこか一線が引かれたような。

 そして、受診者が、受診台の前に置かれた時に抱く、あの緊張感…これはいったい、何処から生まれるものなのだろう…? もちろん、健康の尊さを無意識の内に自覚する、人間の本能ではあろうけれど。 
 でも…健康の尊さ…と同時に、先人から受け継ぎ・植え付けられ・神格化されたような、この聖域に対する長い間の習性のようなもの…何か根深い先入観のようなもの…そんな何かが、私たちの中にあるというのも一因である事には間違いないと思う。 (近年はそれに加えて、『ガン検診・ガン宣告の恐怖』がある。)

 また、私たち一般労働者が一日がかりで働いても得られないような収入を、わずか数分・数十分間で得る場合もあり…そしてその行列は、長く・長く続いている。

 昔は…罹病のために病院に駆け込み、医師の姿を見て、とりあえず、ホッとしたものであるが…

 今は…(成長期の子どもならともかく)常態・健康の自覚があっても・なくても病院に行かなければならないから、医師の姿を見ると…逆に緊張感・不安感…時には、恐怖さえ感じてしまう。 

 
「薬品投与の問題」にしても…

  (もちろん、一概には言えないけれど)…外傷はともかくも…乱暴な言い方をすれば、思えば新薬というのは、
「治癒」というより、患部を麻痺させる? そしてその繰り返しを乗り切れなくなった時に起きるのが、副作用・悪循環(=薬を断つと・体が震える等々)。

 また、過去にも…業界では広く・当然のように使用されていたと思われる薬品が、
W全くの効果なしWというタイトルで、大新聞の一面のトップ記事として、大々的に掲載された事があった。

 これらの問題のその後はどうなったのだろう!? 改良されたのだろうか? 公然の秘密として、依然としてそのままなのだろうか? 
マスコミもそれ以上追及しようとはしない。私にはこちらの方こそが、年金問題に勝るとも劣らないほどの深刻な事柄のように思われるけれど? 

 
ボランティア(無報酬)と・営利が紙一重のこの世界。 思えば、このボランティアという聖なる言葉には、弱者(患者側)は何も抵抗出来ない。
 神格化
された既成概念(=医療は神様という洗礼)の中で生きるしかないという…これも、一種のマインド・コントロールとは言えないだろうか。

 いつか、ある観光地で見かけた光景だけれど…
 
その重要文化遺跡の入口のど真ん中に…テントを張り・立て札を掲げ・沢山の机を並べ立てて、観光客向かって『義捐金』を募る、地方の医療団体に出くわした事がある(大震災前)…(なるほど、手っ取り早い方法だ。) 一般の企業感覚(=お客様は 神さま)では考えられない、その名前・立場を利用したこれらの言動に対して、戸惑いどころか、怒りさえ覚えてしまった(あまりにも社会性に欠けた!)。 これでは、折角の知事さん、市長さんたちの観光客誘致のための努力奔走も何にもならない、水の泡。マスコミにしても知らないはずはないのに! それとも…何も感じないのか、見て見ぬふりの、知らん顔。

 W国民総動員で日本の医療を支えるWという、(医療側のための)このファジーな(=曖昧な)キャッチ・フレーズにも、どこか「もっともらしさ」を感ずるのは私だけだろうか? こんな情景は、未来的にみて何処まで持続可能なのだろう? 未来の若者たちが、果たして何の迷いもなく引き継いで行くものなのか…?
 ここにも、あの巨大な社会構造…世襲制…公的機関なのか・私的機関なのかという
、『郵政』と似たような…

 いや、それ以上の、その形態もピンからキリまで日本列島さまざまで…
 自力よりも科学に頼らざるを得ない高齢者が…若者の
・現役の経済を奪う、というか…高齢になればなるほど、医療費が・福利厚生費が加算され・世の中を脅かす…! 何か根源的課題・難題が隠されているような。むしろ、(郵政よりも)こちらの方がよりやっかいな独占企業的要素を多分に含んだ、もっともらしい存在の代表なのかも知れない。


 何より、単純に一本化された公務員としての郵政とは違って、もっとも厄介だと思うのは…

 医療界の現場が郵政のように一律に恵まれ・安定しているわけではないという、この現実。 何故、国民総動員で…素晴らしい!とまで言われる医療制度に守られ…しかも、価格競争など存在しない、この業界であるにも拘らず、依然として不足・不足ばかりが唱えられるのかという…国民の日々の生活に直接響いてくる、という…!
 国会議員削減案などとは桁が違うような、この難題。
 
 
国民公共料金として納めているのに、受取り側には営利感覚で運営されて行くという、この現状・実態。
 やはり、世襲制…公的機関なのか・私的機関なのかという…戦後から今日まで、あるがまま・なすがままにしてきた、この業界の問題は大きいと思う。
 
 (もっとも、医療の場合、郵政とは違い、世襲制そのものが悪いのではなく、さまざまな患者の層…運営体制・設備環境など福利厚生において営利が絡むのは当然であり・自然であり・自由であり…要は、もっと根本においての公私混同・営利混同に問題があるという事で難しいという事。念のため


 命の問題とはいえ…また個人や医学界の人たちだけで考えたのでは、今となってはどうしようもない根深いものがある現実とはいえ、これらを本当に
健全な・先進国家と呼べるだろうか。
 高性能だとか、近代的だとか…巧みな言葉に誘導されたような…「中央…」だけではなく、素朴な患者を抱える、(事務化・義務化された)「地方の実態」にも、もっと目を向けてほしい。 

 「どうも調子が悪い。一度、病院へ行ってみよう。」

 と、近くの内科・外科歯医者さん
駆け込んだ、あの頃が懐かしい。物心つく頃から今日まで…さまざまな出会い、環境が与えられる中で、「病い」も自然の成り行きの一つと捉え、少なくとも、自分の体は・自分の感覚で管理してきた。 本当の豊かさとは何だろう。一人・一人の『自立した個性・能力が結集された社会』ではないだろうか。


 何よりこれらは、医療の現場の人たち自身の方から指摘されている問題である、というのが良い証拠だ。


 昔、結核は不治の病とされた。でも当時は、マスコミの台頭もなく、また現代のような形での「…検診」「…保険」のようなものは存在せず、医療側も・患者側も「不治の病」などと口にする事なく…良くも・悪くも、双方が暗黙の内の了解…といったような形で気遣い合い、受け止めて行くしかなかった…自然の、また見えない力に委(ゆだ)ねるしかなかった。
 しかし時代は進み、科学・文化の発展によって
豊かな生活・社会環境が与えられ…気付いてみれば、結核はいつの間にか
自然消滅のような形で私たちの前から姿を消した。「予防接種」はあったとしても根本的にはやはり、生活環境であり、後手の作戦によるものなどではなかったと思う。

 冷静に考えれば…またこんな時代を迎えてみると…なまじ、この…老若男女・十把ひとからげ・一律一辺倒の医療制度の導入・奨励…がなかった事が幸いした。少なくとも今のような…
自然の原理・道理よりも、マス・メディアによるその時代・時代の社会通念・社会常識・化学療法…が優先され…結果、後へも・先へも身動き出来ない! 混乱した悪循環を招くだけのような社会にはならなかった…という事は言えないだろうか。 

 
は…辿り辿れば…その80%が精神的要因によって発症する、と聞いている。(もっともこれは、
に限らないけれど。)
 
精神と肉体の授受作用(生活習慣…空気…なども含め)によって、一つの人格が存在する…そんな中での現代におけるこの、「ガンという存在。

 言い換えれば…究極のガンとは、言わば
『ストレスの塊
(かたまり)であり…その動きも自由で・気ままで。思えば、「ガン検診」「ガン保険」という、この異様とも思える程の「ガンを特別な存在に仕立て上げる」というやり方…誘導 ! ましてそれに化学が加われば、ストレスはますます増えて行く…悪循環。 
 こんな科学万能の現代にあって、未だ完治・治癒率が実証されない
中であるにも拘わらず、
「検診!」「検診!の奨励…私には、ここにこそ、その最大理由・ポイントが隠されているような気がしてならないけれど!? 
 
情緒的環境(先祖から受け継いだ嗜好・習慣的なものも含めた…)無視され…ますますもって、迷路・迷路へと誘い込むような…「今や、3〜5人に1人がガンの時代です!」という呼びかけ…いったい、何を目的とする検診なのだろうと思う!? 

 肉体論ばかりを重視し…
精神論(単なる心理学ではない)を疎(おろそ)かにしてきた、その「ツケ」と言おうか…私たち人間に対する、
自然界の応酬・警告! そんな使命を持ったその代表にあるのが、このガンという存在』なのかも知れない。

 思いが全てを左右する・言葉には命があるこう思えば本当にこうなり…ああ思えば本当にああなる、というのが人間だし、それが基本となって、食欲不振・逆に暴飲暴食→栄養のアンバランス・運動不足→罹病…につながって行くという。人間は良くも・悪くも、言葉の誘導(=マス・メディア)によって幾重にも変わる事の出来る存在であり…が体に従うという事は、絶対にあり得ないのであり! 

 また、再臨のキリストは仰った…先進国の人々は、『薬漬け』のために病いに犯されて行く…と。

 ストレス…さまざまな薬物の飲用正に・そんな真っ只中にある、この日本。 高齢者に限らない、特に今の若者
たちへの安易な薬品投与実験段階にあるとしか思えない、種々の薬物・飲料が…もっともらしい言葉によって、いともたやすく利用され・乱用される現状は、深刻!!
 

 『ゆりかご』から『墓場』まで…官僚の上から目線の営利感覚でもって医療に関わり過ぎて来た結果が(=過干渉)、今の日本の姿・実態とは言えないだろうか。個性尊重・自己管理への軽視…悪循環。

肉体の行方  心の行方

 また…特に高齢化社会であれば、当然、考えなければならない、『埋葬』『墓地』の問題。たとえ散骨であっても、それなりの法律が存在するだろう。さまざまな葬送儀礼檀家制度…宗教…公なのか・私なのか、さっぱり判らない! 
 
 
仏事の場合、近年は菩提寺だけでなく、さまざまな公共団体・企業団体(=JAなど…)がこれに加わって…例えば『御会葬御礼』のハガキには…「誠に勝手乍ら御返しの儀は御厚志の一部を社会福祉協議会への寄付を以って…」という文言が必ず記されているけれど…これらに掛かる税金は、一方的に公共機関に流れるのではなく、社会の中で庶民のためにうまく循環しているのだろうか。 JA、社会福祉協議会って何だろう?

 再臨のキリストは仰った…歴史を無視する人は現実の責任者にはなり得ない…
と。

 これは決して大げさな話ではなく…さまざまな問題のその根本に返らなければ解決しないだろう、気の遠くなるような細々(こまごま)とした庶民に押し付けられた、もっともらしい官僚的規律・法律が、日本にはあまりにも多過ぎるような気がしてならないけれど…!? 


  「 亡骸は大地に 御霊は神に 思い出は遺族の胸に 」 

       < 「スウェーデンの散骨」 (HP・書斎の窓・掲載分) より >
 

 そしてさらに…さまざまな業界に『意識の転換』が求められる時代。また、地球全体が「人類は  一家族」を目指す時代。 
 思えば、
地球の
3分の2が海 ! 
海洋開発・水素エネルギーの発掘と同時に、この問題も(=納骨)、海洋をも交えた中で、その解答を求める時代がやって来るのだろうか…どうだろう?

春は名のみの風の寒さ…

 そして、そんな中でも依然として要求される、与党マスコミによる、消費増税案…それによって起きる、悪循環

 『零細企業』はもちろん、
『中小企業』にしても、また薄利多売可能な施設や条件のない企業…何より、マスコミにも見放され・取り上げようともされない個人企業などでは…消費増税をすると物が売れなくなるのは必至で、肝心のその商品の価格を逆に値下げしなければならないという、不健全な価格競争。そしてそれは、仕入価格…製造費…雇用・人件費問題への悪循環につながるという、堂々巡りの繰り返し。

 (私たちは、例えば365日の食品などに対しては、たとえコンビニやスーパーであっても、その中でもさらに格安の商品を得ようとして、あれこれ物色する習性がある…まして小売業・個人商店であれば…)

 今の日本の情況では、あの大企業さえもままならない。グローバル単位で(世界単位で)画策を練ったとしても、それは一種の日本脱出であり
日本離れであり…不健全な価格競争に変わりはないと思う。 

 国内においても…あの、バブル崩壊後あたり?からの現象だろうか、W大企業・有名企業間同志の合併、合併Wだけれど…

 これにしても、表向き(=帳簿上)はともかくも…今一つ、その中身が・その目的とするものが判らない…未来的に見て何か不安感のような・夢のないような…威嚇
(いかく)のようなものさえ感じさせ…何より、(合併はしたけれど…)企業間同志の経営方針の違いから、逆に新しい難題・課題が増えたりして…結果としてそれは、その現場(=消費者等)にも影響をもたらすという…結局はこれも、同じ悪循環の繰り返しなのでは? と言ったような。
 
 もちろん、世の中には夢のある合併もゴマンとあるだろう事は分かるけれど。

 政府・
マスコミは、重要な問題・課題が生じた時、その決着を即・連合だとか、中央会だとかの大御所に求めるといった習性があるけれど…
 これにしても…庶民に実感として伝わって来るようなご利益は何もない、というのが現実のようで…この習性も、その大御所の立場を尊重した、単なる官僚主導につながる組織票固めの・形式上のものに過ぎないのでは? と言ったような。 国民のために本心からその解答を求めているとは、到底思えない。

 神様に100%守られた
自然の生きものは…たとえ百獣の王・ライオンであっても、これらの結末がどんなものであるかを
(%)も承知のかれらであれば
 他の大物の動物を交え・かれら同志で徒党を組んでなどという、そんな
非原理的(非個性的)な生き方は決してしない(=それぞれの個性を尊重する自然の仕組み・秩序が乱され・崩壊するという事を無意識のうちに、その本能で自覚している)

 例えば、あの自然(山)の水は…水道水のように、冬冷たく・夏暖かいではなく…はほんのりとして温かくはヒンヤリとして冷たい。今さらながら、自然の仕組み…四季の国・日本のための天の配慮である事に気付かされる! 
 冬冷たく・夏温かいというのは、その場の物理的・科学的論理(短期的展望)としてだけ考えれば、いかにもごもっともで・当たり前のように思えるけれど…また社会が広がれば、水道がなかったら大変だけれど。
 でも…それだけでは、未来につなげる何かが見えないし(長期的展望)、夢がない。 都会への一極集中…科学・化学の発展によってさまざまな自然の宝物人間の個性までもが、埋もれたまま・生かされないままに崩れ行く、日本列島
 神様にしてみれば、日本を
農業国とされたのは、自国のためのみならず、世界のための農業国とされたのかも知れないのに…!?
 「衣」「食」「住」の全てにおいて…
医療業界さえもまるで流れ作業のように流れて行く、今の日本社会…地方の実態。 
 昔のような…仕立て物だとか・オーダーメード…といった
手作りの品魚屋さん・八百屋さん・玩具屋さん…あの建物(和木住宅)さえも、めっきり減った(格安・便利な輸入材を優先)…人口の少なくなった地方では…その需要も・供給も必要としなくなった中で…当然の流れ・現象といえばそれまでだけれど。

 
『需要(消費)の立場』はともかくも、その前にまず、『供給の立場』の問題だ。

 
(思えば小泉元総理は、郵政民営化という大改革に挑みながらも、当時の日本の情況を踏まえ、消費増税はまだ時期ではない、と判断された…現政権<民主党>においては、その郵政改革の引継ぎさえもなおざりにされたままでいる…)
 
 改めて思うけれど…こんな状況下にあって、これはいったい、誰のための・何のための増税なのだろう !? 

 理想社会実現(=消費税中心社会)には、まだまだ難問・難関がいっぱい立ち塞がっているというのに。


 「数字」「数字」でデジタル化されて行く中で…そこから得た大掴みの数字を生業(なりわい)の種とする習性(もちろん、デジタル化そのものは時代の流れであり、利点はいっぱいある事を承知の上で。)

 一寸のスキも与えず、とりあえずの結果から得た、後手・後手の素早い
マスコミ報道(世論調査)意識するあまり…肝心の現場(社会)の実情などに心を配る暇も・余裕もないという不健全な日本の政界の実情

 そのくせ、それぞれを押し上げるのではなく…そのテーマをあくまでも双方の現場・現地に立ってそれぞれに・具体的に
分析し合うのでもなく、机上の空論にばかり頼り…
 例えば一つの政策課題・実行者の思いに対しても、これがスポーツであれば「参加する事に意義がある」と、勝ち・負けの前に・双方の立場で勇気付け・励ますのに…先手でもって即・賛成側・反対側に
十把ひとからげで絞り込み、たとえ提言者側であっても、不足の部分・見落としの部分・反省の部分も残されているのかも知れないのに…
議員同志の健全な討議のための空間を塞ぎ、即・人格問題に追い込み、根本課題からは外れた無駄な情報材料・後手・後手の批判論ばかりを打ち出し・撹乱させ…
 結果、
改革を遅らすのも、
マス・メディア ! 抜本的改革を必要とし、僅差数字のアップ・ダウンに心を奪われている時ではないのに ! 

 ちなみに世論調査というのは…その内容によるとはいえ、例えば勤労者の立場でアンケートに応えるのと、経営者・指導者の立場で応えるのとでは、その回答に全然違ったものがあり、なかなか結論が出せない…必ずしも参考になるものとは限らないと思う。また、公務員を対象とした世論調査などは、見た事も聞いた事もない。


常識が逆転した医療界

 もちろん、政治に限らない。 例えば今の医療界の多くが、一人の人間の環境の変化(=引退・退職など)…また、人それぞれの個性は無視し、科学のみに傾注し、十把ひとからげで即・認知症に仕立て上げ、患者の未来を決定付け・社会から遮断し…結果として、逆に家族を・介護者を物心両面に渡り(=検診・医療費と・家族の労働時間を奪い)戸惑わせる…というのと同じ理屈なのかも知れない救済のための医療機関が、逆に物心両面に渡り社会生活に弊害をもたらすという、悪循環!  

 当然とはいえ、今のこの認知症というのには、長い間の積み重ねによるそれぞれ個々の事情から発症されるものがほとんどのようで、医療などで片付けるといった単純な問題でない事は、素人目にも明らかな事であり…その上にさらに、薬品投与となれば…これはもう、悪循環以外の何者でもない 
 
認知症と診断され、何の相談もなくある日突然、施設に送り込まれた人たちに共通した、あの恨みに満ちた顔・顔…表情…が、それらを証明している  

 何より医療側というより、患者の家族自身が率先して?当人を即・認知症と決め付け、認知症扱いにせざるを得ない、この少子高齢化の社会事情…「自治体・行政の役割」名ばかりの素通り(=組織が設置してあるだけ)即・医療(営利)に回す・頼るという、一律・一辺倒の役所のこの流れ…社会通念…あげくには、家庭内不和…経済の崩壊。 

 昔は…「もの忘れがひどくなって…」くらいの言葉で片付けていたような面があり、化学療法的社会環境に恵まれなかった分、逆にその事が幸いし、当人にも何かと抑制力我慢力のようなものが備わって、少なくとも今のような、即・病院だとか・入院などという発想にはならなかった。
 例えばあの、
「インフルエンザ」にしても…今のような複雑怪奇?な現象ではなく…高熱・くしゃみ・咳…といったように…衣・食・住のすべてにおいて、良くも悪くももう少し単純で、回りの空気にも自然さがあった
。 「インフルエンザ」という、その名前(病名)さえもなく、自然現象に対する自分の不注意で風邪をひいたという自覚…即・病院ではなく、食べ物・飲み物に配慮しながら、極力・自分で(家族で)治そうとしたものだった。
 この、マインド・コントロールされた社会風潮。もっと
根源の問題・課題医療制度の根本(=自然環境に沿った体力作り)から問い直すべきではないかと思われて仕方がないけれど !? 一人・一人の個性・人生は何のために存在するのだろう、といっても過言ではないような…

 この現象も、『認知症』に限らない。
 私の周りだけでも…社会生活に疲れ・追い込まれ…
薬害による
(そう)(うつ)躁・鬱…の繰り返しのため、出口を失ったこの悪循環に喘(あえ)ぐ人間は…老若男女を問わず、いっぱい存在する! あなたの行くべき先は、病院だけではないのでは? と言いたくなるような。 
 そして、それ以上に…そんな
悪循環に喘ぐ人間(患者)に対して何の手立てを講じるのでもなく、老若男女を問わず、まるで顧客のように扱い、定期検診・薬品投与…定期検診・薬品投与…を数年〜十数年と繰り返す患者を抱える、医療現場の実態・正体って、いったい、何だろう ??


 また、その入院患者の現況も…医療側の事情で「転院」を余儀なくされたにも拘わらず(=大病院から小病院へ)…あとはもう、営利感覚(=患者の治癒率・可能性)で物事が進められ突然の多額の転院費部屋代等々福利厚生など医療に関わる膨大な諸経費の発生…何より、健保・国保の毎月の支払い・罹病時の割引負担は依然として続いているのだから結局は、「生活保護手当受給に頼らざるを得なくなり、その資格の申請という、まるで流れ作業のような。 これも、悪循環の繰り返し! 
 エッ? まさか!? と思うような
厚遇にあると思われる人たち(=有名人)までもが、その裏では「生活保護」に頼らざるを得ない、医療現場の実態 ! 今さら騒いでも仕方ない、今ではこれらの出費は医療界の常識のようになっているそうだけれど…医療界というのは、公なのか? 私なのか? さっぱり判らない。  
 残される家族を思い、長い歳月を掛け・コツコツと貯めた遺産が…思いがけない、わが身のために、一瞬の内に消えて行く…! 
 当然とはいえ、その中には役所に支払うべき、多額の税金も含まれている。
 
 高齢出産にしても…もちろん、一言では片付けられないけれど…これは昔からあった現象で…当人の生活環境への心配りは大事としても、それを取り巻く医療環境に、今のような科学・化学
に頼った後手の対応ではなく、もう少し自然さがあったような気がするけれど…?  (私も、高齢出産の子だった。) 
 
医療を受ける人間はまともで、受けない人間は不幸であるという…自然環境・社会環境に対する
医療界の常識非常識が気付いてみれば、昔と今とではなんだか逆転したような。(…したような、ではなく、完全に逆転している !) 
 また、人間誰でも一つや二つ、「持病」のようなものを抱えていて、それぞれその人なりに…これも一つの人生…と
謙虚に受け止め・
対処して行くけれど(付き合って行く)…今の医学は、その持病?(癖?)さえも胎内にある時点から見つけ出そうという事なのだろうか? もしそうだとしたら? 有り難いような・迷惑のような…これは、母体(胎)にまでさかのぼり考えなければどうしようもないものなのでは?
 当人の努力も謙虚さも必要としない、まるで、ロボットの世界にでも送り込まれたかのような…壊れたら捨て・作り直し…壊れたら捨て・作り直し…外観(肉体)が素晴らしいだけで、それ以上のものは伝わって来ない。 結局はこれも…「過度の検診」によって生まれる「
情緒的環境への無配慮・破壊」という、悪循環の繰り返し。

 たとえ健康で産まれても、いつ・どんな時・どんな災難に出遭うか分からない…これこそが神様から与えられた、
喜怒哀楽を持った人生なのでは !


 思えば、政治がトントン拍子では進まない生業(なりわい)であるのに対しマスコミが十把ひとからげで突っ走るというのはどこかおかしいし、あり得ない。 政治とは政(まつりごと)であり…そんな、単なる流行に乗っかったような…競争・闘争のような…表面計算一発で出せるようななりわいだろうか。
 いつの時代にも繰り返して来た事とはいえ…
物理的にはともかくも、まだまだ、情緒的にも未完成な、そんな日本の情況だ。

 
が出来ていないのに、科学はどんどん進んで行く…!

 
これも、敗戦から今日まで、西洋思想…アメリカナイズ一辺倒…の中を生きてきた、私たち日本人に染み付いた習性のようなものから生まれる何かだろうか…? 日本にとって肝心のこの時…アメリカの…水を打ったようなあの静けさは、何を意味するのだろう。

 もちろん、悪いものばかりではなく、
天使長国家
(学問用語)(=公僕・公務員の立場 )・地上天国のモデル国家としてのアメリカから得た、良いもの・大切なものもいっぱいあり…彼らにしてみれば、それらは決して意図的なものではなく、「戦う民族」個性とし・先祖に持つというアメリカ…善かといった、合理的・単純明快なアメリカ人気質 !
 ただ、それら(=
アメリカ人気質日本人気質)
をうまく組み合わせ・自国のものとして…日本の個性・自然環境に合わせて仕立て上げる…自立・自律心を養うという力量に欠けていた…という事は少なくとも言えないだろうか
? 今となっては、これも理論・理屈に終わってしまうけれど。

 医療問題にしても…そんな世界の指導的立場にある(あった?)にも拘わらず、アメリカには未だ日本のような「強制国民皆保険制度」が一律に存在しないというのには、それなりの理由があるからであるに違いないしオバマ大統領の希望方針(=国民皆保険制度の導入・オバマケア)が、一見、理想に思えても…何より、自由を尊重する米国民にしてみれば、現実にはそれらが必ずしも彼らの求める理想とするものであるとは限らない…今のこの、日本の医療現場・庶民の散り々々・バラバラな実態・未来性(=営利なのか・非営利なのか…)を思えば、尚更だ。 
 (参考の一つ
…堤 未果『沈みゆく大国 アメリカ 』 集英社新書刊 など)


 「国民皆保険」というのは、少なくともその大前提として、国家…というより、国民の…物理的・情緒的基本・基盤(=経済力・従順性)が一律に備わっていなければ成り立たない制度だと思うから…今の日本の状況を思えば…また若者たちの持続性継続性…未来性を思えば…また世界単位で物事を考えて行かなければ取り残される…世界を自由に行ったり・来たり…という時代圏にあって…何か・どこかに抵抗を感ずるのは、この私だけだろうか…!?

 
また、たとえ景気上昇に伴い報酬月額(給料)がアップされたとしても…同時に・それに比例して、社会保障(=年金・医療)の月々の支払い額もアップされる訳だから、実質・手取額を考えると…(経営側も含め)簡単には喜べないものがあるような

 
勤労者が圧倒的に多いこの日本社会では、毎月・毎月の保険料(給料明細)を自らが算出し、また毎年の申告に自らが直接出向くわけではないのだから、舞台裏つまり、経営者ほどの負担感・抵抗感はなく、気付かない場合がほとんどだろうけれど。行政・内閣でさえ、この苦労に気付かない。それどころか逆に、「素晴らしい!」とまで唱えられているのだから、全てがマインド・コントロールされた中の勤労者の立場であれば、尚更だろう


 しかも…だからといって…つまり、そんな舞台裏の苦労に気付かない、そんな勤労者の立場であるにも拘らず、今の社会保障制度に決して満足している訳ではない…逆に、そんな現場の実態に自分たちは振り回され・悩まされ…とさえ思っている、この現実 ! これも一種の矛盾・悪循環 ? 結果として、いったい、誰が満足しているのだろう ?

『消費税』を中心とした理想社会

 少なくとも将来的には、今の高齢者が体験してきたような…無駄の多い・官僚的・強制的なものへの出費は激減し、『医療』に対しても、『本格的消費税の導入』による国民のための…いやむしろ、医療側の未来のためにも、もっと自立した・民主的安定した…海外先進国のような国家体制の医療制度(=強固で公平な待遇・設備環境)が敷かれて行くに違いない。今の状況では…苦労している親(国家)のため、子ども(国民)が自分で・自分の治療費を支払っている(=医療保険+現場の割引負担+現場の福利厚生等諸経費)、と同じ理屈だ…(いや、理屈ではなく現実であり・官僚体制のためであり !) 

 自らの納める税金を、納税者自らが本業以上の物理的・精神的エネルギーを注ぎ込んで算出しなければならないという社会の仕組み(申告制度)! またたとえ医療側であっても、実質・守られているのか・いないのか…ともかく、どちらの立場にあっても不安定な・曖昧な…(実質・安定しているのは、公務員・官僚だけ。)

 また…土台さえしっかりしていれば、
年金だけに頼らない、それぞれの個性・能力に准じた、積極的な貯蓄への意欲なども生まれて来たりして、今のようながんじがらめのもっともらしい制度・仕組みで飾られた、うわべの華やかさ(=上澄みの部分は公務員・官僚に絞り取られたような)ではなく、もっと実質的個性豊かな社会を迎えているに違いない。

 銭・金の問題ではなく
(=たとえ高額であろうと)中身の問題であり、それさえしっかりしていれば、それらは自然と根付いてくれるに違いない。人間として一番大切な、『自由』を守ってくれるに違いない。 


 (初歩的質問になるけれど) 例えば…海外移住で戸籍を移動し、年金納付の必要がなくなったとしても、後年、また帰国すれば移住期間のそれら社会保障費の空白を埋める方法はあるのだろうか? 逆に、海外から来日して・数年後にまた帰国すれば、その間支払った社会保障費はどうなるのだろう? それなりの特例・特典制度が存在するのだろうか? それとも…あくまでも「支払い期間」を満たさない限り意味はなく、初めからそういう例題は存在しないのだろうか? グローバル社会を迎え、その辺り、どうなっているのだろう…!?


 もちろん、だからその体制も、今ある消費税にプラスしてなどといった、曖昧な・夢のない、国民の負担感を煽るだけのような…何より、逆に公共機関での無駄な作業・無駄な人件費・経費が増幅されるだけのような…そんな目に見えた増税案・後手作戦ではなく…

 あくまでも、現行の税制度・社会保障
消費税を、一旦、ゼロの地点に返すくらいの気持で(=実験段階にあるとしか思えない今の消費税も、一旦、白紙に戻し)、改めて一つ一つを点検しながら…時代に沿った、今度こそ、本物の消費税導入案(=本物の社会保障と税の一体改革)でなければならないのは、私には当然の事のように思われ…
 例えば
タバコ税の値上げ…継ぎ足し…といったような際限のない応急処置の繰り返し国民の大半に理解不能の現行制度などで乗り越えられる状況ではないような気がするけれど? 

 ちなみに、近年、問われ出した
「禁煙問題」にしても、何故、消費者側ばかりが問われ、禁煙指令の理由、製造元・販売元(=原材料…製造過程…専売公社…タバコ産業)は、何一つ言及・公開されないのだろう? 煙草も、元々は自然の産物(植物)。マスコミ、というより、その前に(=後手作戦の前に)…やはり、行政の問題だ。
  
 今のこの、「中途半端な増税案」に
天の采配が下りない最大の理由は、こんなところにあるのでは !? なまじそれらは一掃し…という、自然淘汰の時代

銀行のあるべき姿とは ? 

 (ちなみに)本来、銀行とは何だろう と、改めて考えてみたくなるような…高齢化社会を迎え、未来を想定した中での、今の(地方)銀行の実態。

 思えば…例えば
年金制度など、こんな時代にあって、社会性のない・一つの決められた枠の中の発想によって生まれた、格差的・官僚優遇…公的機関に縛られ・振り回され…貯蓄どころではない…また貯蓄したとしても、ゼロ金利に等しい…といったようなものではなく…もっと、広い社会中心・対象とした、単純明快国民主体一律公平ものであったなら

 
年金懸ける意識も、今のような…年金だけに頼った・痛々しいではなく、それは銀行等金融機関・さまざまな産業に与える影響も、もっと健全で…銀行本来の目的・使命と言おうか貯蓄はもとより、貸出しなど企業との関係も含め、もっと活発で・好循環で…!
 国民にしても、
年金・年金ではない(もちろん、年金を利用した投資もあるけれど)、それよりも、貯蓄(投資も含めた)・労働にかける意欲の方が勝(まさ)ったような、さまざまな可能性を含んだ、もっと健全な社会を迎えてはいなかっただろうか !? (=労働力貯蓄力正比例した…) 
 
何より、1000余兆円などという、(これからもまだまだ増えて行くと言われる)想像を絶する膨大な借金などは生まれなかった(生まれない)に違いない。

 
農業人口の減少など、土台・基盤の不安定な国家産業(第一次産業など)のため、例えばTPP交渉一つを取っても、なかなか前には進めない・先の見えない・曖昧な…それどころか、その銀行までが…貯蓄ではなく、企業・団体(自治体)などから自動的に振り込まれる、収益(給料…)・公共料金に頼ったような(=振込み口座を増やす事をなりわいとしたような)、この日本経済のあり方  
 ここ数年、あらゆる業界が本業はそっちのけで、あまりにも「年金問題」に振り回され過ぎて来た…しかも、(国民にしてみれば)未だ未解決・曖昧(=格差付け)なままである…!?

 また、
医療制度も含め・これらの点検・改革はもとより、例えば、文化・観光など公共施設からの歳入・利益なども、あくまでもしっかりと国民に還元される、官・民を一体とした国家体制(=消費税)に重点を置くとか…来るべき消費増税案導入のためにも…それより他に何か方法はあるのだろうか !?
 
 
 曖昧な・無駄の多い公共料金の徴収・搾取は、一つでも多く減らすべきだ。そしてそれが、人事も含めたさまざまな削減・改革につながるのであり…元手(=多彩?な税収)がなければ何事も動かないのだから、それらは自動的に改善(=無駄の削減)されて行くのではないだろうか。

 もっと、
民営企業を中心とした社会展開されて行くべきだ。

 
 根本問題(=土台・仕組み・先手作戦)を放っておいて、政治家の・業界の…不正問題ばかりを追っかけていては(=後手作戦)、この悪循環は永遠に終わらないだろう 。 


 消費税(間接税)の導入によって…自分の希望する物(事)を・自分の希望する時に・自分の意志で選ぶ(購入・導入する)…納税する方も・される方も、その場で大方の作業が終わってしまい…それは自動的納税につながり・自動的に徴収につながり・意識する事なく社会貢献する…何より、(今のような形での)毎年・毎年の申告(=毎年・毎年の官僚詣で)を必要としない(=経営・労働意欲を減退させない)。

 「
納税額削減」のため、職場(本業)・従業員を犠牲にした「申告のためのさまざまな支出・浪費・悪循環」も激減して行く事には間違いないから、そんな人工の世界は幕を閉じ…海外からの反応(=さまざまな制度に縛られる事なく犯罪も減り、自由に行ったり・来たり…)、また自然環境・自然エネルギーを主役とし(=無駄のない・強固なインフラ…)、国民を中心とした世界が、さまざまな形で回転し・展開されて行くに違いない。

 一言で言えば …消費税(間接税)は、需要・供給の立場、官・民の立場に関係なく、それぞれ所得・受給の時点から発生させれば、老若男女に関係なく・情緒的にも・物理的にも公平に・幅広く徴収出来るというのが、最大の利点ではないだろうか。
 直接税には…あのお上
(かみ)に年貢を納めた時代と同じ感覚のものがあり・その名残りであり…さまざまな業界を・さまざまな工程を経る中で・不透明な部分が生じたりして…結果として、それは国民ではなく、大部分が官僚のための制度に始まり・終わっているような…税の行方も・詳細も、その真相…本当のところは私たち庶民には、全く解からない。 


 それにしても、例えば『社会保障改革問題』は…途上国・先進国に拘わらず、また良い・悪いではなく、もっと海外諸国の事例・範例なども取り入れて比較検討すべきだと思うのに…(逆に、日本の制度の良さを改めて見直したという発見もあるのかも知れないのに)…これに関しては与党・野党を問わず、何故か、一切取り上げられないし、ほとんど聞いた事がない!? これはメディアとしての官僚としての現制度を保持するための意図的意識的なものなのだろうか? 21世紀の感覚・言動とは到底思えないものがある

 
国家・個性の違いはあるとしても、もっとそれ以前の・根本としての問題…個性尊重・個人主義の時代にあって…たとえ従順な日本人であるとしても…未来の若者たちが、果たしてそれを引き継いで行くものなのか? 今、世界中で起きている諸問題も、その根本課題はここにあるような気がするけれど…? 
 
ともあれ今のままでは、世界は 一家族
には程遠い。 

日本列島・やり直し論 ? 

   

 もし、将来的に、日本列島・やり直し論を考えなくてはならないとしたら…また、官僚・公務員削減案の導入は、(どうしても)進まないとしたら(=応急処置の繰り返ししか出来ないとしたら)…

 思うに…まず、日本列島・
47都道府県それぞれの「休耕」「廃耕」状態にある土地・建物跡などの『耕地の復元』
(植林等も含めた)には、組合・組織・団体ではなく…また入札・下請け・専門家に丸投げではなく公共事業としてその規模の大小に拘わらず、国家・地方公務員が男女を問わず、直接担う(指導する)…
 そして、土台がしっかりと出来上り・回復したならば、国家・地方公務員には、中心からは手を引いてもらい、バックで支え…春夏秋冬、自然災害にも・人災にも、机上ではない・後手ではない、先手出動など常に現場に待機し…あくまでも、国民を主体とする。 もちろん、
公務員の起用もそれに応える才覚を持つ人たちを訓練し・配備する。 (例…国有林の管理・私有林への指導) (国道・公道・河川…)

 もちろん、自然環境だけではない、商業・工業等々の現場…何より、学問の現場(
教師を・生徒を守る)等々…

 報酬
も(含・社会保障)、あくまでも庶民・国民生活を中心・基準とした中での、条件・支給額とする。 


 そして、実際の現場の…例えば、『農業を営む人たち』として、これも正組合員・准組合員方式ではなく、今度は民間から日本列島のみならず海外をも含めた・老若男女を問わない・個人・団体・企業・グループなどを制限する事なく幅広く募り、営農者として引き継いでもらうその上での組織・団体・組合員方式の導入・設置などはそれぞれに自由とする(=法律・行政の介入ではなく、他の産業と同じように、手法・商法として取り入れる)。 
 法律・行政(官僚主導)という…例えば
減反政策…良くも・悪くも格差付けされたさまざまな・もっともらしい規律・法律に守られた…(=
付金・補助金・助成金?)…にも拘らず、高齢化・農業離れが今の日本の農業現場の実態なのだから。現状維持よりも、常に未来につないだ継続的なものでなければ意味がないのであり、これはもちろん、現耕作地の継承者問題も含めたものとして対処する…(これこそが一番の課題。)
 
本物の現場に立った、そんなモデル区域がいっぱい・いっぱい芽生えて行ってほしい。
  無論、
マス・メディアも先頭に立って協力する…というのはどうだろう? 
 
各都道府県その土地・その土地の命運が掛かっているのであり、農業改革に応募するような人たちは、決して半端ではないと思うから。そしてそうなると、究極にはさまざまな産業農業と共に復活してくれるに違いない。
 日本のためはもちろん、世界の食糧事情…また量産だけではなく、自然農法と人工農法の違いから生ずる、栄養素・味覚の問題等…農業こそが代表的な
『営利感覚』で行われるべき存在であり、自然の山・川・海…動物・植物・鉱物、一挙に回復してくれるに違いない。

 何より日本は、食糧難に喘
(あえ)『世界の食糧事情』を理解していない。これこそが、世界有数の農業国に置かれ・模範の立場に置かれた日本の使命・天命(=母親国家なのであり…人口密度の高い国である事の理由であり…
 そしてそれは、自動的に
必然的に、漁業を始め商業・工業にもつながって行く…!

 
『第一次産業』という、先人の作った聖域・位置付けが…こんな日本の現実を迎えてみると…これも一部にしか通用しない、一面的・断片的マインド・コントロールだった…折角の天の配慮が仇になった…と思われても仕方のないような。 

 広く言えば、
「尖閣諸島」「竹島」も、その根本の問題・課題は、後手・後手の理論・理屈ではなく、正に・ここ(=公務員のあり方・地方行政)にあったのだと思う。

 
聖書・学問的に捉えれば…「天使」(=聖書的古名で言えば、神の子・人間を守る、公僕。現代で言えば、公務員)が、勝手に世の中を采配している…というのが、今の日本の・世界の実情だろう。

 
社会保障の問題。これも公務員・官僚独自…ではなく、聖域を取り払った、極力、「官民一体化」の一律・同等のものでなければ。

 これらはもちろん、農業問題に限らない、国民生活のためのあらゆる分野に通じる、
根本的使命であり、(国家・地方の)政治家の指示の下、常に公務員がその現場に立ち・先導する、というものでなければ。

 政治家と重複したような仕事内容では、「存在の意味はない」 という事だ。


 特に地方行政の場合…
 (毎年の予算計上・確保のための)コンクリート・コンクリートの発想だけではなく、たとえ
平地であっても、自然災害に強い強固な地盤維持・確保のための「植樹」「雑草・雑木・河川の管理」「悪天候への先手の常備隊の設置」など、何か数値を超えた…今のこの少子高齢化問題を如何にして日本列島うまく配分し・活用するのかという、中身・バランスの問題(=長年培<つちか>った知恵・体験・現場重視)に対する、きめ細かな配慮(=高齢者への役割分担)もほしい。

 もちろんこれも、入札・下請け・専門家に丸投げ・区域任せではなく、
現場を公務員が直接担い・先導する。
 その上での入札・下請け…は、「現場の事情」によっては当然、あり得る。
 
 そうする事によって…それは必然的に、
公務員の物理的・意識的改革につながって行くという…?

 市街地の毎年・毎年の道路整備による、ツギハギだらけの歩道。人っ子一人見かけない田舎のド真ん中に、国道
県道市道町道が縦横無尽に走り…何十年のベテラン・ドライバーでさえも、帰郷するたびに戸惑い・立ちすくむ、という田舎道!

 バイパスによって本来の町並みが失われて行く現象は、日本列島、跡を絶たない。

 
官僚主導の「建設産業」などによる「道路・宅地造成」 「箱もの」 というのは…地域経済の循環・利益の還元には、なかなかつながらない…民営機関と公営機関の経営能力(=商才)の違いなのか…公共機関の間を行ったり・来たりして、行政・官僚の聖域内を潤(うるお)す事しか出来ていない。近年増えた自然災害…これこそが、悪循環の繰り返しの代償・代表例とは言えないだろうか。

 舗装道路・鉄筋建築・放置された
山林の増加による、雨水の吸収力の低下…泥土の見えない舗道には、落葉は必要なくなった。落葉を食料とする水棲昆虫のいなくなった側溝…コンクリートに覆われた、その泥土も…段々と養分・成分をなくして行く事だろう。泥土・昆虫だけではない…にとってもにとっても…見捨てられた山林に棲(す)む、さまざまな鳥獣類にとっても。
 

 ちなみに…
野菜類などの食材素材。昔ながらの自然栽培・育成・豊作にも拘わらず…近年、自然の美味・風味が薄れたというか・落ちたというか…これらはその生産・製造過程というよりも、もっとその根本となる、土質(土壌)・水質・空気…の変化によるものなのだろうか、どうだろう?

 行き場を失った、岩石岩石の間を棲み処としていた生物「岩石」と「コンクリート」では、棲み心地栄養素が全く違うという事を、山・河・海の現状・自然災害…を通して、さまざまな生き物が教えてくれている。昆虫を仲保とする、オシベとメシベの交配によって生長していた
植物自然の森…等々も同じだ。

 今度の
大震災でも、こういった肝心の時、地方行政・整備局の人たちの現場への対処・功績?はどれくらいのものだったのだろう!? 少なくとも、マスコミから受ける印象では、私にはとても大きな疑問が残った。 
 逆に…こういった事(=震災の有無に拘わらず、日頃の現場を無視した形式・建前・事務的対応)の積み重ねから生じる、物心両面に渡る災難がどんなに大きなものである事か(あった事か)…
! 
 
 あの
原発事故にしても…そもそもの始まりは、自然の原理・道理(=人間の肉体同様、すべてがつながった仕組み)を無視した結果の、自然破壊からの所産であり…事の後で・事故そのものをどんなりっぱな議論・討論でもって追及してみても、もはや時間・経費の無駄であり、何の解決にもつながらない。 

 鶏が先か・卵が先か…天災を起さない自然環境・住環境か(=先手作戦)、天災に備えた・それに耐え得る住環境か(=後手作戦)…
 くれぐれも・あくまでも、先手作戦にも・後手作戦にも関与しない…官僚の私利・私欲が先に立った、受身・受身の机上主義…また官僚のためのさまざまな建造物・組織の設置・配置ではなく。

 各都道府県のそれぞれ
土台さえしっかりしていれば、海外とのどんな『交渉』にも堂々と参加出来、冷静に・客観的に対処出来る(出来た…)のではないだろうか。部分的・個人的回復はともかくも、この日本の農業・自然環境を復活させるのには、それより他に何か方法はあるのだろうか? でなければ私たち日本人は、『減反政策に始まる…人口減・自然界のさまざまな後遺症・悪循環』に永遠に、列島が消滅するまで気付く事はないような気がするけれど…どうだろう…!? 
 
 何より、
自国のためだけではなく、究極には世界のためにも (=協定・貿易などを通して)
生かすか殺すか…すべては今後の政治主導・為政者のその肩に掛かって行く事だろう。
 
農業国・漁業国・観光国にありながら…「世界有数?の食糧輸入国」(食糧に留まらない!)という、矛盾したこの最悪の事態を脱出する事こそが、先決問題なのでは…!? 

 例えば日本には、衣・食・住…において昔から、
made in chinaの製品がとても多い。にも拘らず、行政(国家間)においては何かと衝突する事が多いのは何故だろう? 現場・民間と政治がうまく噛み合っていない事には、間違いないだろう。

国内騒ぎよりも 自然の威力への関心度

 思えば日本の穀倉地帯の中心・東日本における大震災というのは…
 私たちが今日まで歩んで来た、この地上(日本)で…自らが作り出したものに対する、自業自得という結果であり
解答であり…その自らが作り出したものを通しての、あくまでも大自然からの結果報告であり…私たちが自然の法則とその法則の創り主(=神)の思い無視私物化した事に対する、取りあえずの警告であり…(=旧約聖書…ノアの洪水審判からの教訓・他) (=チェルノブイリ事故同様…とうの昔から預言されていた警告)
 倫理・哲学・法律だとか…世間の常識だとか、の前に…私たちはもう一度原点に戻り、与えられた日本の個性・自然のエネルギーがこれ以上、宝の持ち腐れにならないよう、それらをこのでしっかりと掌握し・上手く組み合わせ・駆使しながら…むしろ、これを(大震災を)その事に気付かせるために与えられた、恵み・チャンスとして、逆に活かして行く、やり直しなさい! という、神様からのメッセージであり、日本の幸せな本物の未来のために、その
『予習』『予備訓練』として与えられた、再出発のための試練という…この、東日本における大震災ではなかっただろうか!? きっと、そうであるに違いない!

「新」「新」の対立はおかしい!!

 遠慮である…と聞いた記憶がある。もちろん、全てとは言わないけれど、必ずしも美徳とは限らないという事なのだろう。 むしろ、この災難を節目・契機として『復習』し・『反省』し、(あの橋下市長の言動からも示されるように)無駄はもちろん、中央…独占…一般庶民には名前さえ知れないような聖域…は極力省(はぶ)き、可能な限り「公」との関わり合いにおいて格差・不公平感を無くし、勇気ある決意・決断でもって臨むべきであり…これらはもちろん、排除したり・見限る事が究極の目的とするものではなく、
 「官・民一体化社会を目指す!」

 という事であり

 
 
しかし、そのための手術は必要だ。

 あの(
小泉内閣時の)『郵政選挙』でも示されたように、これこそが、心ある日本国民大半の本音なのだから、それをバックに(=心の支えに)、為政者には、もっと自信と・勇気ある行動でもって先導して行ってほしい、と願わずにはいられない。

 また、いつの時代にも繰り返して来た、「新」と「旧」の対立。これは当然、起きるべき事として理解出来るけれど…
 「新」「新」の対立というのが今一つ、私には判らない。芽吹いたばかりの…同じ立場にありながら…早くも対立とは!

 例えば、「大阪都構想」にしても…「地方権力の争奪戦」…と述べたメディアがあった。これは正しい表現だろうか? 一度、しっかりとした公の場でその理由を是非、聞いてみたい!?

 本物しか生き残れない時代にあって…「対立」ではなく、もっと違う方法があるのでは? あまりにも短絡的というか…相手の本質をしっかりと把握した上での対立なのだろうか? あなたたちが本当に目指しているものは何なのだ!? と思うと…疑いというか…なんだか悲しくなる。慎重に・丁寧に…は理解出来るけれど…また身内同士の討議・討論・揉(も)め事などは、前進のためにはむしろ必要な、当然の成り行きとして理解出来るけれど…共通点は全くないのだろうか!? 
 (
郵政改革を始めとした)これまでにも何度かチャンスに恵まれながら、どこか中途半端なまま・停滞したまま…という理由の一つも、ここにあるような。  

 「公務員改革」をキャッチフレーズに立ち上がった政党。
私たち国民の目には…大局的に捉えれば、「公務員改革」「(大阪)都構想」というのは明らかにつながっているのであり、目指す方向は同じにとしか見えないのに!? (=前者は抽象的・ハード、後者は具体的・ソフト…の違い?) 
 
「新」の立場にありながら、「中立」を保つというのは…「改革の意志」はどれくらいのものだろう!?

 「新」というのはすべての業界においてであり、政治家だけでなく、メディアに登場する評論家・教育者…たとえ歴史家(=政治史・経済史)であろうと(=歴史は何のために学ぶのかという、その目的からしても)…ともかく全ての業界に求められる課題であり…何より、そういった新しい発想を求める時代圏にある人たちが今、果たして育っているだろうか? あなた自身の問題だ、と言いたい。

 他にも…(早くも)「陰り」だとか…「暗礁に乗り上げる」…だとか。『改革派』といえど、どこか今一つ、ポイントが掴めない、もどかしい組織の多い中で、
『一番新しい改革派』
に向かっていう言葉だろうか? 未来的にみても、「大阪都構想」というのは、(この名称はともかくも)大阪だけの問題ではないはずなのに !? 
 近年は「都構想問題」はどこへやら、(目先の)新しい問題・課題が持ち上がると、すぐに
橋下市長に質疑応答が集中するという、マスコミの姿勢・方向性にも何か疑問のようなものが浮かぶのは、私だけだろうか? それとも…市長ご自身の力量がそうさせるのか…? (笑)  
 それとも…
市長ご自身が、天に試されておられるのだろうか? (この難関を如何にして乗り越えるのか、という…微笑)

 もちろん、私たち庶民にしても…
『維新』という名目・その立場…日本の歴史が示すように、その節目・節目に登場したように…何があっても失敗を恐れず突き進んでもらいたい、という思いが強いのも確かだけれど。

 何より、都構想問題に限らず、例えば…新案に対する、何でも反対・反対の「反対運動」。 (註…反戦運動など除く) 
 つまり、
現施政を批判しながら、かといって新案が打ち立てられても、それに対しても引き続き反対・反対…一番不思議なのは、反対派に対して対案・代案を求めないままに、一緒になってそれを煽るメディアのあり方。これは
メディアの大半に言える事であり(全てとは言わないけれど)、日本独特のものなのでは ? これでは日本の発展は永遠に望めない、淘汰して行くしかないだろう。

 
 
ともあれ、このように、マスコミの表現方法・立ち入り方にも問題があるとしても…それ以上に、マスコミに左右されない、物理的・情緒的両面での…また日本の主要部分・目先の都市部だけを重視した、その日暮らしの政治に飲み込まれない…各地方・自治体など社会全体を見通す「客観性」「ゆとり」のようなものが、『先輩の政治家・改革派』には欲しい気がするけれど !?

 これらは、さかのぼれば際限がないけれど…
 やはり、「義務教育」・「社会生活を目前にした、大学の在り方」等に繋がっていく問題ではないだろうか。
 

 「知識の把握」「実践」は違うのであり…「未知の世界」に対して、お互いをもっと尊重し合うべきなのでは? と思ってしまう。 

 私たち国民にしても…
 
この世というのは一言でいえば…例えばどんな雄大な音楽(公的)も…身近な音楽(私的)も…楽曲作りの法則は同じであり、その法則を無視すれば楽曲は完成しないし、人々にも受け入れられない。それと全く同じ理屈で…
 その楽曲を広め・盛り上げるには、作る側・聴く側の協力なくしては成り立たない…(=周囲に左右されない・官僚に遠慮しない、自立の精神・判断力
)

 何故なら…それら(
=遠慮義理人情中立保留先送り・怠慢組織の維持)の積み重ねの結果によって生まれる、沢山の試練を担うのは…「有史以来の残酷な復帰の歴史=やり直しの歴史」が示すように…結局は、未来を背負う立場にある、今の子供たちなのだから! を思ってした事が・その甘さが…になって返って来るという! 既にそんな兆候は…庶民には全く身に覚えのない・1000余兆円という官僚政治が生んだ、膨大な国の借金(=海外には関与しない? 国内による・国内が生んだ借金…国債発行残高。)を通しても表われているのであり…そしてそれは、こんな体制が続く限り、さらに・さらに増えつつあるという ! (この日本だからこそ、なんとか持ちこたえているのかも知れない・想像も付かない、超膨大な数字 !)

憲法とは ?

 思えば…『憲法』とは何だろう? 恐らく、私たち国民の大半に理解不能・未見『日本国憲法』
 何より、憲法改正といえば何故、W第九条Wだけが取り沙汰されるのだろう?

 たとえ九条であっても…その根本・基本は…連合国軍の監督の下(=
アメリカの主導)に作成され・敷かれたという、「日本国憲法」。 改正だとか、護憲だとか…その内容・必要性というよりも、それ以前の…形態というか・体制そのものというか…また、「原本歴史的仮名遣い・旧字体のまま…」とかされる、今の憲法そのもののあり方…やはり、その土台(=立ち位置・作り主)から練り直す事が、一部の・専門家のではなく、老若男女全ての日本国民納得させる、唯一の方法なのでは? 主体をどこに置くのかという、基本・出発点の問題だと思う。 知識の問題ではない。
 (先進国にありながら)憲法論議をする度に、アメリカ…連合国軍…マッカーサー元帥、という言葉が、70年近く経った未だ登場するという事自体がおかしい(註・2015年現在)。何より、未だ存在する『沖縄米軍基地』…理論・理屈以前の問題だ。

 例えば、今の時代に明治・大正の服装で街を歩いていたらどうだろう? 小学一年生になった息子が入学式の日、親に制服を着せてもらったような。
 また護憲派に言わせると…襟があって・袖があって…基本は同じじゃないか、気にする事ではない、という事になる? 
 しかし改憲派、特に
若者たちには…その外観だけで(=すでに議論の入口で)拒否反応を起こし(=中に入ろうとせず)、耳を貸そうともしない、というのが本音なのでは…? (革新系の学校教育から学んだ人たちもいるけれど…)

一国采配・民族主義時代の終焉

 何より…当時、アメリカ(連合国軍)が、日本国憲法公布と同時に、自らの戦争放棄も共に実践してくれていたら、こんな混沌とした矛盾だらけの不合理な世の中にはならなかったし、国民の「日本国憲法」「政府・国会」に寄せる信頼度・関心度には、もっと高度で・強固なものがあったに違いない。当然、あの「沖縄基地」は存在しないし…「日米地位協定」も「日米安保条約」も…何より、こんな先の見えない憲法論争こそが存在しなかった
 
時代の必然として、『マスコミ戦争』は登場するけれど…その後のベトナム戦争…湾岸戦争…イラク戦争も…米ソの冷戦も…あの厄介な、アフガン問題も…存在しなかったに違いない。

 たとえ、当時の世界の実情
(レベル)では、それは(=アメリカの戦争放棄は)無理な論理だったとしても(ソ連軍の存在など)…しかし、連合国・アメリカという大国が率先して同時放棄をしていたら(目指していたら)…少なくとも世界の実情は、今よりは全く違ったものになっていた事には間違いないし、最少の被害に留まっていたに違いない(事実、ソ連の世界進攻などは、今日に至るまで一つも存在しない)
 
何より、終戦から凡(およ)そ70年! (註・2015年現在) 何故、こんな当り前の事が、この21世紀の今日に至るまで放ったらかし・野放しにされて来たのだろう?? 日本だけの責任だろうか?  内容(憲法論争)に入る以前の問題なのでは…!? 
 ヘビの生殺しのような第九条論争」も、初めから存在しなかった。 

 ちなみに、イラク進攻に日本が加担(関与)したのは、当時の進攻そのものの目的・アメリカ市民の賛同…何より、その根本は日本国憲法により日本の立場がそのように位置付けられていたためであり、小泉総理とイラク戦争は直接には結び付かない…時の総理が小泉さんだったという事であり、この場合の結果論やそれ以上の詮索には客観性が足りないと思う物事の全容を捉えない、当時のメディアの対応感覚からしても、日本全体としてそれらをくつがえす程の理論も力量もなかった。イラク戦争を追及すれば解決する問題ではない、もっとそれ以前の根深いものがあると思う。

 それは一見、日本国としての自由の尊重を謳
(うた)っているように聞こえるけれど…
 一歩、外に出れば(=外交上では)、日本政府の前は素通りの…十把ひとからげのアメリカ主導(基地問題など)…『アメリカ直属の日本政府』として扱われたも同然の中での自由であり…実質・70年近く(註・2015年現在)をアメリカ追随の日本国として
、日本の政治主導(現場)を弱体化させ…
 また、国内においては…主体性のない・海外・現場には通用しない…机上の空論・もっともらしい
官僚支配(=御山の大将)による、今のような中途半端な民主主義国家を造り上げてしまった。国民世論をしっかりと育てて来なかった。基本がアメリカ主導では・官僚主導では(=アメリカ主導と官僚主導の板ばさみ)…育てようもなかった。 (第九条の存在にも拘わらず、未だ基地が存在し・憲法論争や反戦デモを行う事自体が、良い証拠 !)

 挙句には…そのアメリカさえも…(慰安婦問題に関連した橋下市長の指摘にもあるように…)
 最近の
沖縄の米軍兵によるさまざまな事件・事故…過去から数えても相当な件数と言われている…(マスコミが全部取り上げるわけではないのだから)
 米政府というよりも…
心・此処(基地)に在らず…
と言おうか、現場の彼ら自身の心理状態が、もはや限界に達しているのでは? と思わせるような。こんな現代に…異国の地で…大多数の県民からその存在を否定される中で、「兵役」そのものを生活の糧としなければならないという、自らの存在感・価値観に対する未来への失望・喪失感のようなもの…彼らにだって・彼らなりの…また彼らにしか判らない、世の中に対する疎外感のような・格差感のようなものが渦巻いている人たちもいるに違いない。
 この事にしても…普天間だとか・辺野古だとか…憲法論争同様、基地(飛行場)移転騒ぎ以前の問題だ。 
 
 政府・
マスコミは…また世論にしても、何故、そういった肝心なところに目を向けようとはしないのだろう !? 現場軽視・社会性の欠如? 隠蔽(いんぺい) ? それとも、『勇気の問題』なのだろうか。 

事実・現実より恐い…イメージの力

 それとも

 
反米思想論者が多いとされる…にも拘らず、護憲論(第九条)を叫ぶ、護憲派の矛盾…!?
 「戦争放棄」の一言に魅せられ…
アメリカによる原爆投下にも拘わらず…日本国だけを対象とした、この狭義の一面的護憲論にも拘わらず…それへの執着。日本軍だけを戦犯とする、自虐的自国攻撃…! 
 皮肉にも、この『九条』がアメリカを勢いづかせ(=武器を放棄させ・味方に取り付け)…結果、その
甘さとなり、米軍撤退を遅らせた…!? 
 アメリカとの協定・条約などを否定しながらも、基本を護憲論とした事が…逆に
世界平和を遅らせた!?

 
確かに、日本国憲法によって日本は戦後、ただの一度も参戦してこなかった。 (天皇家も、必死で九条を守って来られた。)

 にも拘らず、依然として『戦争』という言葉に脅かされ・引きずり回され…情緒不安定というか…微妙な立場を保ち続けてきた…そしてそれは、延々として今でも続いている。 この一種の矛盾とも思える現象は、何故起きるのか…?? ここにも、(世界を対象としない・通用しない)九条の未熟さ・甘さが窺われるのではないだろうか。

 (率直に言って…) 将来的に、もし、アメリカに国家的災難が降り掛かって来たとして(当然、経済問題も含めて)…そんな時、果たして日本は、同盟国・アメリカのためにどれだけの力量を発揮出来るだろう !? 「九条」は…アメリカ、というより世界のために、どんな働きをするのだろう、生きがいを与えてくれるだろう !?

 ともあれ、第九条について言えば…
 いつまでも群集心理に紛れ込み…彼らと一緒になって、アメリカには何の影響も及ぼさない、短絡的な被害者意識でもって主張し・叫ぶだけではなく、何より、アメリカ自体のためにも、実質・同じ線上に立って・
自立した立場で…もちろん、両国だけの納得・自己満足に終わらない(これこそが大事!)、世界観に立った、

 
「 『軍隊・核を持たない世界』 の提唱国家 」

 の先頭に立って…例えば
『自衛隊』という、人々・国家によっては…というよりも、自国からさえも誤解を招くような(中途半端な)イメージではなく…折角の彼らの貢献を無駄にしない…グローバリズムに立った、世界に通用する・敵対感情を抱かせない(これこそが大事!)・逆に彼ら(他国)をも呼び込むような…国内の安全だけではなく世界的規模での(戦闘目的ではない・たとえ同盟国であろうと戦闘要請には応じない)人災・天災への召致にも即・対応出来る包容力を持った…また、開拓をも含んだ…

 
「21世紀にふさわしい 広義の名称」

 
に取り替える(企業に例えると…国連を「本社」として・各国はそれぞれ「支社」「支店」として置く…みたいな名称?)
 アメリカから自立した・むしろ先導的な…
そんな、世界一律の画期的
な名称(名称だけでなく・教義・訓練の内容をも含めた)に切り替えるという…ここで初めて、日本国として『第九条』を守って来た護憲論としての意義があるのであり…そしてそれは、「世界のため」をも含んだ、改憲論へとつないで行く…! 

 というよりも、護憲・改憲ではなく…

 
一国采配・民族主義時代終焉の時を迎えた今、それにふさわしい、自分たちの想像の範囲(領域内)の護憲、改憲ではなく、世界的見地に立った…世界のための現代・日本国憲法として、一語・一語をチェックしながら・その両方を生かすような、「対象に対する表面的・表現的問題」とでも言えば良いだろうか。(=自立した・世界のための、新設・日本国憲法)

 例えば、
『イソップ物語』が…内容の趣旨は昔も今も変わらないけれど、文体や挿絵(さしえ)などはその時代・時代の翻訳家たちによって、時代のスケールに沿った・世界を対象とした、国際感覚でもって変化して行く…と同じ理屈 ?

 自衛・防衛…軍隊…潜水艦 だとか・軍艦だとか…攻撃側はもちろん、たとえ防衛側であっても(=防衛を装ってみても)、どちらの立場に立って考えてみても…これらの言葉が存在する限り…
大国(先進国)が率先してこれらの言葉自体を表舞台から消さない限り…『戦争』というイメージを、この地上(=世界)から払拭(ふっしょく)する事は不可能だ
 
日米間に、たとえ何か、経済的・投資的?問題がその裏に隠されているとしても?…
戦争・闘争を思わせるような『基地』…などは、論外だ。

 「事実」・「現実」は、その場の出来事として最小限度その場に留める事が出来るけれど…
『イメージ』は、時・場所・人…を選ばない、所構わず、無限に広がって行く… !

 親がどんな言葉・理屈でもって説得しても、家庭の
イメージが変わらない限り、子どもは決して信じない。

 例えば…天皇陛下
が、何かの折に国民に語られるお言葉を思い浮かべてみても…私たち国民は、陛下のそのお言葉に、「上から目線の威圧感」などは全く感じないし、それどころか、国民の方から陛下を求めて寄り集まってくる…! だから、なんと表現したらよいか…意識する事なく、境界線・国境線(=上から目線)が取り外されて行く時代
 


 世界の中でも最も重要とされる、
母親国家・日本新しい憲法には…わが子の平安を常に見守っている、親の心情を思わせるような…国境を・また正・不正をも超えた…(正・不正…常識…文化…宗教<信仰とはちょっと違う>…は、人によっても・国によっても違うから、一つにまとめ・決め付けるのは難しい)…そんな何かが、日本国憲法にこそ欲しい気がするけれど、とりあえず良い方法はないものだろうか !? 

 
天の願いであり・人類窮極の夢は…日本国だけを指した第九条を、少しでも世界単位に広げて行くという事ではないだろうか。

 
昭和天皇「無条件降伏宣言」というその思いを、再び、世界に証しする? 
 
 武器戦争と
マスコミ戦争の違いは、ここにこそあるような気がするけれど… !?
 

自立なくして 戦後なし

 また、未来はともかくも、今のような…核保有国が「上から目線」で、他国・途上国に向かって核放棄を強制するという、そんな不純な(矛盾した)・曖昧な核は、一旦休止・廃止するほどの決意で臨むべきだ ! 

 こればっかしは(=子どもの自立)、たとえ神様でも手出し出来ない。 
 世界のあらゆる信仰・宗教の存在目的も、正に・ここにあるのだ
と思う。(=国家の自立)

 再臨のキリストは仰った。

 過去のように、一つの国が先頭に立って人類を引っ張っていった時代はすでに終わりました。民族主義の時代も終わりました。』
 『教育者
、自分一人が裕福に暮らす方法ではなく、私たちの時代のあらゆる社会的な諸問題を解決することのできる知恵を教えなければなりません。』
 
 『個人の使命が自分で終わってはならない。神の全体目的と一致しなければならない。』
 
 
…と。
 
 21世紀を迎え、権力主義ではなく、真の民主主義・世界平和を唱える、オバマ大統領
登場は、その事を証明した大きな一例ではないだろうか。 (=復帰摂理歴史・歴史的同時性において、現れるべくして・現れた人。)

 『個の繁栄』も『公の繁栄』も、その根本目的は同じ。にも拘らず…
 「今のこの繁栄は、自分(自国)のために与えられたもの。」
 と受け止めるところから誤解が生まれ、すでにその時点から不幸は始まっているという事を知らなければいけない、という事なのだろう。(
歴史的同時性への対応の失敗・無知…)


『無条件降伏宣言・軽視の代償に苦しむ、日本人

 敗戦国・日本には、昭和天皇によるあの、日本降伏宣言が存在する。

 
古代・近代史上、世界に類を見ない、あの御自らを担保として発せられた無条件降伏宣言 (聖書・イサク献祭からの教訓)
 当時、それを高く評価し
感銘を受けたのは、むしろ、アメリカだった…! (=マッカーサー元帥による)

 
そしてさらに…敗戦国・日本復興のため、凡そ10年の歳月を懸け、昭和天皇の先導のもとに始まった、国民を励ますための日本列島・ご巡幸…(これさえも、未だ世界に類を見ない!)

 その
天皇の貢献・功労が…正に・天に受け止められたかのような…その後の日本経済の発展→経済大国・日本の誕生→世界外交!  
 

 
天皇の日本国民に寄せられるが、皇室にはびこる根深い因習…規律・法律…を超えた!?  
 (スポーツ選手が、勝っても・負けてもその人格・品格に変わりはなく、尊重される…と同じように。)
 

 この流れを振り返り…日本国のみならず世界の模範としても、私たちはもっと尊重し・認識すべきだったのではないだろうか。
 
肉体は滅びても、昭和天皇(たましい)・教訓は…決して消える事なく…そしてそれは、その後(=平成)の皇室外交に引き継がれ・それを世界に示しながらしっかりと、私たち日本国民の心に生きている。

 
「過去の日本」を楯(たて)に…未だ続く日本攻撃。 目先の駆引き・取引きのような事ばかりを繰り返し・重要視するアジアの実態をみつめながら、今更のように私はこの事を思い返してみる

 あの、未だ続く、
『従軍慰安婦問題』にしても。 
 
ある課題の中の一つの流れとして出てきた、この話題であるにも拘わらず、まるでそれだけがすべての中心課題でもあるかのように、もっともらしく持ち上げ…マスコミを先頭に徒党を組んで・国民を煽(あお)り…逆に世の中を撹乱させ…誰にぶつけるというのでもなく…挙句には、個人攻撃(=橋下市長攻撃)に走るという ! 冷静さを欠いたこれらの主観的・感情的国民世論 !! (木を見て 森を見ない)
 
(本音と建前の区別なく語らせて頂くならば)…日本人には戦争を語る資格はないのか…!? 世の中に従軍慰安婦問題ほど悲惨な出来事はなく、それはあの、広島・長崎の原子爆弾をも超える程のものだったのか…!?
 資料によっては、全く別の歴史的事実・証言が存在するかも知れない、この問題を…いったい、自分たち(自力)で何を求め、どう解決しようとしておられるのだろう…??
 
(参考…
「小野田寛郎…私が見た従軍慰安婦の正体」 正論・一月号より、ほか)

 すべてが…何か・どこかあやふやな(海外から見れば)トップ(リーダー)の存在しないイメージを与える、この戦後の日本…未熟な・曖昧な民主主義。
 そもそも、『従軍慰安婦問題』も・『沖縄基地問題』も・『拉致問題』も…また、皇室の恒例行事には組み込まれない『靖国参拝問題』も…そのルーツ・起因を問われれば…また建前論でいけば…それは、この日本国にあるのであり…「身から出た錆(さび)」という事になり、まして身内同士(国内)で揉(も)めていても、今さら何の解決にも・進展にもつながらない。
 これらはすべて、元はといえばこの、無条件降伏宣言・日本列島ご巡幸という存在の重さ尊さ軽視した…太平洋戦争の悲惨さ未来への教訓として捉えるのではなく、単なる人情論に流された…と見られても仕方のないような…逆に、海外世論に加担するような目先の個人的感情論に走る、一面的・主観的日本世論の甘さ群集心理からの所産…またあの、『日本の戦後教育のあり方』にも、もう一度、見つめ直すべきものがあるのかも知れない。

 「日本の今の幸せは、戦争に負けたお陰で与えられたもの」という、反戦を叫ぶ人たちの、この単純解釈 ! これは決して正しいとは言えない、それは、今のあの世界の敗戦国の実態・国内事情を見れば頷ける問題であり… 
 敗戦によって生まれる、トップ・リーダーの追放・亡命…極刑…報復…経済悪化…失業・貧困…途絶える事のない、内部混乱…さまざまな後遺症…これらは、日本の戦後の復活が決して敗戦だけで得られたものではないという、大きな証しではないだろうか。
(親の心 子知らず) 
 
 
『自虐』『反省』は違うのであり、海外世論に与える影響も全く違ったものとなり…何より、国内のみならず、その、海外世論の成長のためにも…くれぐれも、これらへの区別・分別と注意が肝要なのでは!?

 敗戦国・日本の…何もかもが失われた中に立たされた、昭和天皇
 

 昭和天皇の歩まれた道(=やり直しのための土台造り)を無駄にしない・軽視しない・過去に捕らわれない、
模範とし・毅然とした自立のための発想の転換こそが、今こそ必要な時ではないだろうか。 (負けて 勝つ)

 太平洋戦争聖戦と呼ばれる所以(ゆえん)あの大国・アメリカが、敗戦国であるにも拘わらず日本に対して今日に至るまで、一目を置いた…置いてくれた…というのにも、正に・ここにあったのだと思う。
 
神から意図的に与えられた試練に、我が子・人間(=摂理国家・日本)
が、どう対処するのかという。

 そしてそうなれば…当然、日本を取り巻く、アジア諸国(隣人)の重要性(相互扶助の精神)にも気付くはずだし(はずだったし)…さらに…それは西欧へも影響を及ぼし…その後の数々の無駄な戦争さえも招く事などはなかったに違いない。
 
(参考…姜 尚中・聖学院大学教授の基調講演
「となりびと」認め合う関係築け 朝日新聞掲載 より)


 また…『国際連合』(=国際連盟に始まる) とは何だろう? 何のために生まれたのだろう ? 

 世の中が…世界中が…大国・小国を問わず…また、たとえ国連に加盟しない国であるとしても…これだけ、さまざまな問題・課題を抱え・追い込まれ・揺れ動く中で…(家庭に例えれば、言わば
親の立場にある)国連の役割とは何だろう? 事前の…ではなく…事後の・後手の…すべての結果報告に対しての命令・指示を下すという事だけが、そのなりわいなのだろうか? その実態は…高みの見物という…単なる形式上だけのものなのだろうか? その存在の必要性は何処にあるのだろう ? これも一種の官僚…? いや、これこそが、神の子・人間(各国民)を無視した、官僚の集合体とは言えないだろうか。 

ハード(国家) より ソフト(国民)

 人類は今が、マスコミ戦争(第三次世界大戦)の真っ只中にある事を自覚していない…気付いていない…アメリカにしても・ロシアにしても・中国にしても…まして、後進国に至っては…!

 例えば今の、あの中国の攻勢は(
北朝鮮も含めた)、マス・メディアの存在なくしてはあり得ない言動であり…今や武器戦争というのは、それに付随したものであるに過ぎないのであり…全ては、情報の結果によるものなのだ。
 テロやクーデターならともかくも、武器戦争の時代は既に終わっている。
天の協助ではなく、人間の主観で勝手に動いている。
 

 米中同盟だとか…米韓同盟だとか…例えば日本の新聞の、(他国に配慮?した・自虐的な)
見出し・タイトルの一つ・一つに期待を込め・それを利用した各国首脳による、国家目線での日本攻撃煽動! 
 言葉の一つ・一つが窺
(うかが)われている…そんな日本の状況を、旧態依然とした感覚でいつまでも平時と捉えていては…情緒的のみならず物理的(経済的)にも、ズルズル・ズルズルと衰退の道を辿るしかないだろう  

歴史の節目・節目に登場する 民間人の力

 それよりも、これからは…

 
学生・企業・文化・音楽・スポーツ・ボランティア等々…人種・国家を問わない・さまざまな立場でもって自らの足海外に赴(おもむ)き、苦労・苦難を体感し・実感しながら、友好の道を開こうとする人たち! 各国首脳を中心とした国家目線ではない、実質その現場に立った、この国民目線にこそ目を向け・尊重し・希望を託し…さまざまなマスコミ攻勢に惑わされる事なく・踊らされる事なく、自立の道に向かって邁進(まいしん)する ! むしろ今こそ、その最大のチャンスの時と捉えるべきであり…!


 この民間人の力。 思えば…数々のあの『NHKの調査資料』『歴史ドラマにもあるように…これは昔からあった現象というか、情景なのかも知れない。

 例えば、
大陸の戦地からの引き揚げの時…敵軍を逃れるその先々で…敵・味方の区別なく、彼らを庇(かば)い・匿(かくま)い・
いつもその窮地を救ってくれたのは、現地の中国人。 朝鮮人…ソ連人もあるのかも知れない…もちろん、日本人もさまざまな場所で異邦人を救ったのかも知れない。 (私の母も、そうだった。)

 人種を問わない…その土地・その土地の
民間人だったのであり…この「繋(つな)ぎ」があったからこそ、日本人は救われ・帰国の途に着く事が出来たその現場において・現地の人々に救われた…! まだまだ、私たちの知らない歴史的事実・ドラマがいっぱい隠されているに違いない! タイ国にも…戦後現地に赴(おもむ)き、日本の農業指導して行った、日本人の足跡・実績が残されている。

 現代で言えば…

 
蓮池薫さんのような、翻訳家・エッセイストが誕生した! (参考…半島へ、ふたたび新潮社刊より)

 
テレサ・テンさんのような…その舞台裏ではさまざまな苦労を重ねながらも…アジアの歌姫と呼ばれる、素晴らしいシンガーが存在した。

 あの…
老若男女を問わない、多くの日本国民魅了し・潤(うるお)したヨン様の存在は大きい。


 もちろん、政治史上にあっても、為に生きようとする優れた政治家は存在する。
 『太陽政策』を掲げた
韓国・金大中大統領 (カトリック教徒) は、史上初の日韓共催による大イベント、『ワールドカップ開催』のため、与党の何か大きな要職をも返上し、政治上の取引き・駆引きはひとまず置いて…日本にたびたび要人を送り込みながら、日本文化開放のための韓国での戦後史上初めての、(禁じられていた)『日本語での大コンサート』(=『CHAGE & ASKA』による、チャリティー・コンサート)を開催された。これは、日本人アーティストとして初めての最大イベントだった。 (何より韓国において、晴れて日本の国歌斉唱のためにも !?) 
 
 この時、
大統領夫人は…『三十八度線平和コンサートを開き、韓国・北朝鮮の国民に同時に見せたい!』…韓・日・北が一つになるという、大きな夢を描いておられたという! 当時の国際情勢・さまざまな物理的・情緒的環境・事情により、それは叶わなかったけれど。この、『日本文化開放』のため日本のアーティストを指示しながら・先頭に立って奔走したのは(当時の)『韓国政府』だった。

 願わくば、
父親国家の代表・朴大統領にも…父上の元・大統領が成し得なかった未達成の部分を、北・南・日本また周辺諸国メディア等々をも交えた中で…かつて味わった事のない、新しい未来のための体制でもって、手を組みながら、むしろ、これを契機として、ぜひ、取り戻してほしいもの。

 また、CHAGE & ASKAによる
台北公演で歌われた名曲W君何日再来W まるで自前の曲でもあるかのように歌いこなすC&Aを見て…嬉しかったのだろう、この時の観客の喝采も忘れられない。
 彼らはあの、
モナコ音楽祭にもアジアの代表として連続出場。他にも、北京・英国・東南アジア…!  

 自ら動こうとはせず、狭い範囲で・その場を取り繕うための「心理学」ばかりを語る理論家・評論家。そこまで言い切るのなら、何故、もっと事の前に行動出来ないの? といった理論・理屈が飛び交う中で…

 
スポーツ・政治家、アントニオ猪木さんの存在は大きい。打算のない、理論・理屈を超えた、日・北平和外交これは両国の厳しい中を、今でも続けられて行っており、猪木さん・ひとりで頑張っておられる。 


 そして、ソフトバンク代表・孫 正義氏の存在。
 この
情報化社会にあって…○○競争・△△競争…という、熾烈な世界市場の最前線を歩む立場にありながら…(=朝鮮民族屈辱の歴史を、自らの体験によって克服し、父親国家・韓国としての尊厳を取り戻した、その代表的立場にありながら)…その究極の目的とするところは…

 
韓・日を越えた、理論・理屈を超えた…東日本大震災を教訓・きっかけとして、 『脱原発』『自然エネルギーの導入』こそが、『幸せの基本・出発点』であるとして、韓・日・北のため、世界のために、さまざまな困難を乗り越えながら、幅広い観点に立った、世界貢献。 絶対、不可欠な存在だ。


 私たちは、まだまだ試されている。
 言い換えれば…すでに物事は公の・個の区別なく、一つ・一つを選り分けながら、どんどん、進められて行っているのかも知れない。 
 
 これらの事(=国民目線・民間力)を何にも増して、まず初めにしっかりと認識すべきだったのではないだろうか。この事を置いて歴史を語っても、また政治が有利に働いても、それは物理的・表面的解決に留まり、たとえいっとき進んでも(=繁栄しても)…天の道理に合わないもの…持続性のないもの…(人間として肝心の)情緒的側面、また現場軽視は…自動的に埋没し、恒久平和のためには、何かの形を通して必ず引き戻されるに違いない…ましてそれぞれの国に、摂理国家(=父親国家・母親国家・天使長<=公僕・公務員>国家)としての認識がなければ…どんなに頑張っても・頑張っても、それは自動的に…運気・霊気が逃げて行く。 
 幅広い・柔軟受け入れ態勢(=客観性)と、しっかりとした個性確立そして
自立! (=日本を・世界を取り戻す)これらの同時進行こそが大事であり、急がれる時ではないだろうか(なかっただろうか)。

 先頭に立つ
マス・メディアには、これらを単なる流行文化としてだけ捉えず、後生につないで行く努力をして欲しい。


 再臨のキリストは仰った。

 
私たち人間がこの世を生きる目的は、日々の暮らしの中から生ずる『喜び』、物事を成し終えた暁(あかつき)に生ずる 『喜びを体感する』 事であり、それは人々を喜ばせ、自分も喜ぶという、『二重の目的』の上に成り立つ喜びでなくてはならない

 …
と。

 素敵に花を活けたなら、自分で眺めているだけではつまらない。多くの人に観てもらい、感動し・賞賛してほしいのだ。 
 同盟…とは名ばかりの…物理的・経済的での強国追随・保護の下、ではなく…究極には自らが造り出した、実質・実感する
情緒的喜びでなくては…またそこに到達しなければ、形がどんなに整えられようと、それらはいつかは衰退し・淘汰(とうた)して行くしかないという…公を・個を問わず…大国・小国を問わず、初めから自然の法則がそのように(=二重の目的)組み立てられている、という事なのだろう。
 その上での、貿易であり・海外交流であり…相互扶助の精神であり…そのために与えられた・天変地異
(=終末・末法)であり…もう一度、原点に戻りなさいという…天の警告(=親心)なのだから

 
もはや、この難題(=大国追随)は、日本国だけの問題ではないと思われる。


 震災によって破壊された、さまざまな環境・庶民感情を放置したままに…また、震災には関係なく、全国的に広がりつつある、少子高齢化・人口減・空家増それを原因として生じる、電気・ガス・水道使用量の減少…それに便乗した「水道光熱費の値上げ」…これらは消費増税案には関係なく、フリーパスで・役所感覚で実施されて行く…あの「固定資産税制度」と同じ…住んでいても・いなくても、という…!
 そんな今の地方自治体の深刻な状況も無為無策のままに…他の施設の再稼動・公共工事を優先すれば、日本経済を回復させ・好景気につなぐ事が出来るというのは、なんとも…
! 自然の驚異・畏敬の念を飛び越えた、ウサギの三段跳びのような、厄介なインフラの問題

 自然破壊・風評被害・被爆の再来に脅えながら悶々とした日々を過ごして行かなければならないというのは、どうみても自然じゃない。

 「事実」「現実」
よりも怖いもの、それは「風評被害」であり…前者はなまじ諦めも付き、次の手段を考えるけれど、後者は…進む事も・退く事も出来ない、不安を与え・あらゆる生活の足を止め・戸惑わせ…時には、マイナスの地点にまでも追い込む ! 

 大局的に捉えれば、やはり…
国家的・世界的規模の災害は何故起きるのか(起きたのか)、という模索・反省があり…日本がこれまで歩んで来た道・行政のあり方を振り返り…そこで初めて、(具体的に)一からやり直す、いわば建国精神に立ち返る…というのが、今の日本が・世界が置かれている立場であり・使命であり…偶然ではなく・必然として与えられた試練であり(=歴史的同時性・天の意図…歴史は繰り返される所以<ゆえん>)自然災害を無視した刹那的経済回復の繰り返しが、果たして未来の子供たちに健全に引き継がれて行くものなのか…早道と思ったのが、逆に無駄な回り道(無駄遣い)をしてはいないだろうか、という…!? 

肉体を主体とする 戦争 は有限 精神を主体とする 挑戦 は無限

 そしてその目指すべき道は、闘争ではなく・挑戦であり…!
 先のあの、第一次世界大戦・第二次世界…ならぬ、今度こそ、神の本来の目的・願いである、第三次世界大会・世界挑戦
(=世界のための世界的議論・討論)として蘇(よみがえ)…そのための創造であり(=個性の発掘)生産であり…人工の世界というのは(=マスコミの台頭・経済・外交…医療だとか…年金だとか…)、まず、それらの基盤が成された上での・その結果として与えられるものであり…普通の家庭に置き換えて考えてみても判るように…この根本が・順番が狂いつつあるのが、今の日本の・世界各国の実情・実態ではないだろうか。

 
 一方では、「ロボット開発」 「宇宙開発」…一方では、「○○改革・反対」 「□□改革・時期尚早」…一貫性のない、庶民にしてみれば、何が何だか、すべてが戸惑う事ばかり…右往左往の繰り返し。


 ともあれ、私たちは…物理的にも・情緒的にも、ゼロの地点は愚か、マイナスの地点からやり直すべき課題をいっぱいに抱え(=自然破壊それを放置・看過する受身の感情)(地球全体が)ゴールではなく、出発点に引き戻されたような情況に立たされている…(すべては、預言されていた事とはいえ。)

 しかし、極力冷静に考えれば…日本にとっての
東日本大震災というのは、その(=復帰摂理歴史=やり直しの歴史の)出発点・教訓として与えられた、意義ある・新たな第一歩として捉えるべきものなのかも知れない…!?

 先手作戦と後手作戦。 
 一言でいえば、前者は…
国家の特性(=自然の恵み・産業)・人間性(=読み・書き・算盤。健康の基礎造り・家庭教育・社会教育。自然の保護管理・育成。)が徹底・確立されていれば…時代がどんなに変わろうと、一つの与えられた事柄に対して、しっかりとした基本的作戦が、一つあれば成り立つけれど

 後者は…たとえ政府が・官僚が、事ある毎にその一つ・一つに、臨時協議会…臨時委員会を立ち上げ、やり直しのため・挽回のため、一丸となって奔走したとしても…
事の後では、免疫・抵抗力がないために…これらは幾つあっても・何度繰り返しても、足りない・足りない、の連発…粗大ゴミの拡大…救急医療・警備の増設…先の見えない・際限のない、応急処置の繰り返し・悪循環。 

 また近年増えたと言われる、活断層・液状化…温暖化…彷徨・徘徊する鳥獣類机上(=IT作戦)への過度の依存から生まれる、現地・現場対処の弱体化(=ナビに頼るあまり、現場の諸事情を見失う)。事件が解明すれば良しとする、情緒的側面の軽視。不安・ストレスによる事件・事故の増加…認知症…癌。今や数人に1人が癌に侵される時代であるから・如何にしてこの現象を食い止めるのかという、それぞれの個性を無視し・医療業界を生活(信条)の中心としたような、もっともらしい社会現象。
 人間も・自然も、
創造の原理は同じ。これらは、(霊長
の立場にある人間が)それらを・その順番・基本原理の把握を軽視した結果の所産であり・代償であり…自然を放置した結果であり。

 昔の天気予報には…今のような、「気象台始まって以来の…」 「過去○十年、味わった事のない…」という、数字・数字の羅列ではなく…
 
「雷」が鳴り出せば、季節の変わり目を意識し…梅雨が終わり、「夕立ち」に雨が変わると、夏の到来を意識し…もっと、情緒が豊かだった。自然と共に生きていた。
 初冬になると、時たま現れる「小春日和」も、今では「地震日和」のようなイメージを抱いてしまう。


 災害の前兆を察した、(神に100%守られた)自然の生きものがその場からいなくなるという、教訓。
 
逆に…
故事にある、「異常に多く実を結んだ果樹は 枯れる前兆である」 という、教訓。
 

毅然とした 動機 目的 が根底になければ

 折角の、天命による日本列島改造論が…それに便乗した・過度の「私利私欲(=地方官僚の癒着・談合)による日本列島改造論」によって、多くの自然の恵み破壊してしまった。 

 もちろん、理由は単純に一つではないだろう。

 当時について、中曽根元総理が仰っていた…
 角さん一生懸命やっていた…!
 
…と。

 
 当時の政治環境の…
「改造論」そのものに対する、無関心非協力。検察・官僚政治による…日本独特の正義感から生まれる、個人攻撃メディアの・イデオローグの…趣旨(=改造論)を外れた、一方的な過激報道。 結局はこれらが…改革の芽を摘み、先導者をぶち壊し(=ポイントを撹乱させ)…リーダーの存在しない・目的のない、曖昧な日本列島改造論を造り上げてしまった。  
 思えばそれらの言動(=個人攻撃・
過激報道)が、今の日本社会に何をもたらし、どう役立って来たのだろう? 

 逆に、それらにこだわるあまり、その時々の政策、国家的・世界的問題・課題をどれだけ放置し、溜め込んで来た事か。そしてその混乱現象は途絶える事なく延々として、今日に至るまで続いている。 

 「柔軟に・真摯に受け止め…粛々と…」
 という、その場限りの言葉の裏に隠された…曖昧な、(民主主義を装った)保身というか、保全というか。


 身一つで(=個性)…現場を見詰め、それだけを頼りとして、国会に登り詰めた人。これらを十把ひとからげでもって、比較・批判など出来る訳がない(なかった)。 

 人間は、『二重の目的』をもって創造されているという(=自分のため・公のため)。何かきっかけが与えられないと(=個人的欲望)、公的欲望が浮かばないし・成し遂げられないよう創造されている、という事だ。

 
故郷・新潟の、厳しい自然環境がきっかけだった…!?


 いつの時代にも…そんな
人間の根本原理を知らない政治家が・マスメディアが・私たち国民世論が…今の日本を造り上げて来た。また、壊して来た。


 沖縄基地問題…思いがけない、突然の東日本大震災。 混乱した、今のこの日本列島…!

 とはいえ、時が過ぎれば、
これらは…現場の人たちはもちろん、たとえ他地区の人たちが・団体が…沖縄のため…被災地のために…協力を呼びかけながら必死で叫んでくれても…政界全体の課題としてはなかなか取り上げられない、地域的・部分的問題として捉えられ、折角のそれらの掛け声も形式的・儀礼的対応に留まりなかなか前には進まない。
地方と・中央との感覚の相違…地方の声はなかなか本当には、中央・官僚には届かない。
 (
例…その時々の問題・課題に沿った「各省庁の対応」ではなく、十把ひとからげの「官房長官による、一律・一辺倒の事務的対応」各省庁重み・価値観が失われなければ良いが、といつも思う。)

 東日本大震災も、早くも4年が経過(註・2015年現在)。 沖縄問題に至っては、終戦から70年 (註・2015年現在) ! 何より、民族主義・国家主義時代の終焉(しゅうえん)を迎えた今、基地問題こそは、日米両国だけではない、世界の問題

 今更ながら
…「沖縄基地」と「憲法第九条」「頭隠して 尻隠さず」のようなこの矛盾を、世界はどう捉えているのだろう。 


 「大阪都構想」そもそも、「何故、こんな改革案が生まれたのか…」 という、根本問題などは考えない
 過去の大阪府政・市政のあり方。何より、都構想問題に限らない、
日本国全体の問題・課題…その代表の立場にあるのが「大阪都構想」時代の流れ・必然であり

 極力・原点(=草創期)に戻って考えれば…例えば、小泉改革」橋下改革」はその根本において明らかにつながっているのであり、(究極には)国家の未来のためを想定した、一つのさきがけ・モデルとして立ち上げられた、都構想案
 この難関を乗り越えるのには、(それが大きければ大きいほど) どうしても、暴言・失言…時には主観的言動は付きものだ。
 人間性だとか・挙動だとかの個人攻撃。区画整備によって土地の人情が薄れる・失われるという、いっときの抽象的・センチメンタルな問題へのこだわりなどは、どうみても早計だ。 
 長い間の、官僚政治に慣らされた世論…惰性。甘い ! としか言い様がない。 

  具体性、具体性というけれど…
しかも相手にばかり具体性を求め…その具体性が示されても…それに対しても早くも否定し、現状維持にこだわる反対派。その具体性を引き出す事を止めてしまっているのはいったい、どっちなんだ、と問われても仕方のないような、この日本の古くからの悪因習。
 表面的・一般常識はひとまず置いて…それらを超えた…当事者(先導者)のその根底にあるものを引き出し・フォローする…そんなメディアが、せめて一つくらいはあって欲しいもの。

 結果ばかりに視点を置き、それに懸ける挑戦者(=神に選ばれた人)の思いは無視する…世の中の混乱は、こんなところから生まれるに違いない。   

  沖縄…東日本…と同じ流れを汲まないよう、チャンスを逃さないよう、政策の内容そのものをみつめ、この世紀の難題挑戦して行って欲しい、と願わずにはいられない。

県・県の区別なく 

 心理作戦と心情作戦

 前者は…特別な体験がなくとも比較的簡単に身に付くし、たとえ一人でも…また器用で・能力さえあれば、子どもにでも出来る。イタズラ…ゲーム…△△詐欺・××詐欺…戦争。 

 しかし、後者は…その目的からしても(=相手の・全体の幸せも思う)、単身では、まず不可能で。現場・現地見聞し・体感し、一人でも多くの同志を寄せ集め・心を一つにして立ち向かわなければ、そう簡単には成り立たない。


 こうなれば…せめて他県のリーダー(=知事さん)たちが、一県でも多く寄り集まり、他県の出来事であっても、いつかは自県の出来事として捉え、協力して行く意欲・努力のようなものが欲しい気がするけれど…?
 また、
メディアが先頭に立って…「沖縄基地…被災地回復…都構想…の問題をどう捉えるか」 と、即・世論・概論だけではなく、他県の現役知事にも具体的に質問し・協力要請の働きかけ(=仲介)をするとか…というのはどうだろう!?
 そしてそうなれば、結果としてそれは必然的に、
中央に対する、(攻撃ではなく)協力・助成・進展につながるという。

 一つの家庭と同じで
…家主(中央)の負担が少なければ・少ないほど、物事(国家的・世界的難題・課題)は、早く解決する。

 何より、今のような情況では…つまり、後手・後手作戦にばかり投資するという国の体制では…物事は努力をすればいつかは必ず報われるという、そんな発想・感覚がなくなれば(=身に付いて来なければ)

 
未来の若者たちが、目の前の刹那的(せつなてき)数値的可能性にばかり目を向け…政治・経済はもとより、家庭・家族というものへの(あこが)というか、情緒的なものへの興味意欲を薄れさせ・示さなくなるのは、必至だろう。(=スポーツは大学生になってから励んでも、なかなか身に付かない) (=義務教育の軽視・高学歴の重視) (=家庭・家族への価値観の軽視…崩壊)
 
 昭和天皇が示されたように…世界中から非難され・疎外視される中で…海外にどう映ろうと・思われようと(弁解一つなく)…ひたすら国民(=わが家族)のため・やり直しのため・瑞穂の国を取り戻すために、自らも現場に立ち(=泥の中に入りながら)…日本列島・ご巡幸に尽くされた
 
しっかりとした動機目的を持ち、日本列島が
情緒的・物理的に一致団結する事によって天の協助得る条件が整い国内力が高まり
実質政治力・実質(実体)経済力につながり、日本国を救った


 
西洋医学東洋医学の違いに例えるならば…体の部分的対応全身的・根本的対応の相違…のような?

 現代で言えば…(
離島・本土の区別なく)格差のない・日本列島全体としての土台造りの精神こそが、海外に振り回されない、一番の武器となる(なった)のではないだろうか。
 

発想の転換…戦争平和は 「紙一重」 ?

 世界中の眼が注がれる中の…今の日本の政情不安・混乱。
 
 (気のせいか…) それを(その
イメージを)カムフラージュし・フォローするかのような天皇・皇后両陛下の…
 
パラオへの…北のパラオへの(=「北原尾」)、戦没者慰霊訪問殉職船員追悼
 
南太平洋島国の首脳らを招いた、皇居での茶会
 
(愛子さま・秋篠宮さまのお見送りを受けながら) 皇室(日本国)とは何かと友好関係にある、南太平洋の島国・
トンガへの皇太子ご夫妻による、国王の戴冠式関連行事へのご出席。  
 恒例行事
を交えながらの、これらの
国内・国外を問わない、日本国の象徴の立場(=イメージ…)としての、さまざまなお気遣い

  あの…
歴代天皇を通して守られて来た…また、
『天皇ご一家のお印』(=樹木・花など)からも示されるように…
 
『皇居を取巻く自然』には、教訓とするものが、いっぱいに溢れているように思われる。
  私たち日本国民は、自然界からのさまざまな災害に、今日まで数え切れないほどに遭遇して来たけれど…思えば、(今更ながら)
「自然の脅威」には、どんな高度な政策・施策でもってしても容易には打ち克てない、膨大なものがある。

  (日本国憲法の事はよくは判らないけれど)
思うに
『皇居の自然や緑』を、単なる教訓としてではなく、その存在・お立場をもっと身近に置き、実生活の中にしっかりと取り入れ・生かして行っていたならば、状況はもう少し違っていたのかも知れない…こんな災害大国・日本を迎えてはいなかったに違いない。

 また、(30年余りに及ぶ)
皇太子さまの…(日本国に留まらない)『世界の水運・水問題』寄せられる、その思いと・取り組みには、並々ならぬものが感じられ、それは今でも、延々として続けられて行っているのである。
 
再臨のキリストは仰った。『地球の三分の二は、である』
と。水運・水問題を無視しては、日本の未来・世界の未来はないだろう。

 繰り返すようだけれど…  

 
『 ことばには いのちがある 』 という。 

 
昭和天皇『無条件降伏宣言』。 

 これを、現代に例えるならば。 

 核
「持つ」「持たない」か。これらは、時のリーダー (トップ) の、その一言の決意・決断によって、世の中の流れ・情勢が、ガラリと変わる事もあるという…同じ事例・教訓とは言えないだろうか。

 
人間は元々が、『皆 きょうだい』として創造されているのだから、それが(=核放棄))真心から発せられたものであれば、それは自動的に相手の心に溶け込んで行くという…(敵国と呼ばれようと…)


 そして再びの…全ての業界において、その立場・価値観が問われる時代…日本列島改造論…!? 

 再臨のキリストは仰った。
 『数字の一つ・一つには、それぞれ意味が込められ・与えられている
 と。

 
復帰摂理歴史失敗の積み重ね」により、なかなか思うようには世界の実情は付いて来ないけれど…
しかし現代は、「5」・「6」という、「混沌」・「未完成」ではなく…「7」・「8」という、「祝福」「再出発」(再スタート)の時代…!
 
 つまり、戦後
70を迎えた今であれば、「戦争という発想」は、すでに過去のものとなり・取り払われた時代であり、「末広」の発展へと向かう時代圏と捉えるべきであり…!

 未来的には…「沖縄基地」は、思い切った発想の転換により、たとえ幾歳月を要しようとも…「基地の移設」ではなく・今の基地は廃し・原点に戻って・改めて…

 
『観光事業』などの『地元産業』、また自然エネルギー(水素エネルギーなど)の導入インフラに切り替える …すべてを「排除」ではなく…地元の人たち…(願わくば)米軍兵をも交えた同盟国・アメリカの協力のもと、国家的規模の展開として…

 兵器を捨て…「思いやり予算」という(日米双方にとっても)心もとない・未来性のない…といったものではなく、れっきとした、(
沖縄の自然を活かした)国家産業を目指して挑戦する(緑を取り戻す)というのはどうだろう !? W日本のハワイWを目指して !? (もっとも、常夏という気候までは変えられないけれど…微笑) 
 観光だけではなく、例えば、サミット的?な政治関係の場に利用し…「基地」としてではなく、
「討議・討論等会議の場」として貢献する !?

 そしてそれは、全国に広がる基地の返還(撤退)につながり、一つの
モデル・お手本となって、行く行くは、世界的展開にまでも貢献する ! そのためにも、思い切った発想の転換こそが不可欠であり、急がれる時代圏への突入…!? 
 
 武器戦争 → 理念戦争(=
マスコミ戦争)→真の同盟国(アメリカだけに留まらない)の誕生…!

 良い習慣を続けるか(=土台・基本の確立)悪い習慣を続けるかが(=応急処置の繰り返し)、その人の・その国家の未来を位置付ける、正念場・一つの分岐点となって行く事だろう。

 近年は、日本への『原爆投下』、また『福島第一原発事故』教訓(=反面教師)とする、(ドイツ・メルケル首相を始めとした)各国首脳による「脱原発推進運動」が、世界的規模で広がりつつあるような感がある。

 そんな中で…当の・肝心のこの日本は、どう進もうとしているのだろう ? 「日本の常識は 世界の非常識」…「世界の常識は 天宙の非常識」とするような、そんな時代が訪れるのは、そう遠くない先の話なのかも知れない。諦めないでおこう。


 
自らの政権の時『沖縄基地の撤廃』という、実質・第二次世界大戦の終結…それを提唱し・先導する、勇気ある・ヒーロー(ヒロイン)が誕生するのは、いつの日の事だろう。 


 しかし、更に思う事は…

 
再臨のキリストは仰った。一国采配主義・民族主義の時代は終わりました、と。

 多国を支配しているからといって、自立した国家と呼ぶには、早計だ。 むしろ、その権力でもって他国に甘えているのは、采配国家なのかも知れない。
 そんな時代に登場し…その事を早くも察知し、焦燥感でもって自国のために躍起になっていたのは、アメリカ大統領・トランプさんなのかも知れない。  
 
 どんなに貧しい家庭に育っても、親を尊重する子供はいる。それと同じように…物理的問題の解決だけでは、今の時代・世の中には通用しない。

 
今の若者たちには、(再臨のキリストの貢献により) 既に『原罪』(学問用語)は存在しないという。
 この
成約時代を迎えた今であれば…決して、(もっともらしい)『天使の誘惑』に乗ってはならない。人間始祖の失敗を繰り返してはならない。一国・一国の『自立の精神』。 その上での 『共存・共栄の精神』 こそが大事という、そんな時代圏を迎えている…という事なのだろうか。 きっと、そうであるに違いない。


 時代は更に進み…

 
「人類は 一家族」を、地球の・天宙の根本原理・道理とする時代の中で…現代は、『一家族』とは、世界単位・地球単位でもって対応する時代であり…

 最新のニュース(2022.現在)において…

 誰が見たって判る、あのロシア大統領・プーチンさんの乱行・蛮行を、如何にして説得し・納得させるかが、周辺国家の・全世界の役割であり、その意味では…あの、ヒトラー政権時代同様…プーチンさんは、現代における、そんな徹底した立場に置かれた、むしろ、
犠牲者なのかもしれない。
 
 
人間の責任分担は、たったの5%これはたとえ、ヒトラーであっても…プーチンさんであっても…北朝鮮・金正恩さんであっても、同じ。すべては神の意図であると捉えるべきであり、その与えられた使命(=ご縁・因縁)を、どう受け止め・どう対処するかが、人間の責任分担だ。

 こんな時代を迎え…ロシア大統領を…また、北朝鮮を…説得し・納得させるほどの、物理的・情緒的能力を備えた、
ヒーロー ・ ヒロイン が現れるのかどうかであり、全ての問題・課題解決の原点は、ここにあるに違いない。 

                                  
(2011年 〜 2022年) 

 
 <追記>  やっぱり、事業仕分け !?

 
NTT・電話帳(=タウンページ&ハローページ)の中の、『官公署ページ』を始めとした公的機関を探索してみて、つくづく思う。 (といっても、ほんの入口付近の話だけれど…)

 県はもちろん、たった一つの「市」だけをとっても… 
 
 もはや、その公と私の区別さえも掴めないような…このタウンページに掲載された、数々の官公署…団体 !
 
 改めて、その存在理由・目的を知りたいと思っても、恐らく誰に聞いても、概要はともかく、その現場にマッチし・しっかりとした理由・目的を語ってくれる人などいないだろう、現代における、この膨大な地方公共団体の存在…羅列…!

 当時、民主党政権による、初めての
『事業仕分け』が施行された時…民主党の進出は、偶然でもなんでもない、そのための政権交代だったと、直感で思ったものだった。私の中では、今でもその気持ちは変わらないでいる。政治家にしても、その原点では(=党派に拘わらず)同じ思いであるに違いない。

 その後、自民党政権が復帰し、今日に至るけれど、この政策・テーマが表に出る事はなく、今では影も形もない、完全に消え去ってしまった感がある。 

 改めて、(旧)民主党に問いたい。当時…

 「何をきっかけに(どこからの発想で?)、事業仕分けに臨んだのですか。」
 「何を思って、事業仕分けを中止させたのですか。」

 そして、(現与党) 自民党にも聞いてみたい…

 「事業仕分けに関しては、後にも・先にも全くもって予定にない、その気はないのでしょうか。」

 という事を。

 率直に言って…この
『事業仕分けという政策』は、自民党、(旧)民主党、その他の党、どちらにとって、とりあえず、有利・不利かは判らないけれど… 

 電話帳に話を戻して。
 
 国の機関であるところの、「総務省」・「法務省」・「財務省」・「厚生労働省」・「農林水産省」・「経済産業省」・「国土交通省」・「環境省」・「防衛省」…

 と…その存在は一応、理解出来る。(中には…昔ながらの…また重複したような…感もないではないけれど)

 思うに、県・市・区・町村機関のそれぞれ、その具体的・中身であるけれど…!?

 もはや、私設、公設の区分、また多忙、閑暇の区別・分別…はひとまず置いて。

 ……振興会、……センター、……事務所、……事務局、……法制局、……法務局、……出張所、……案内所、……本部、……本局、……支局、……支部、……支所、……公社、……協会、……協議会、……グループ、……スタッフ、……会館、……学園、……保養所、……互助会、……研修会、……研修所、……準備室 等々…いっぱい、いっぱい。 

 眺めているだけで、気の遠くなるような種類と数である ! 

 そして、問題はここからで…

 その一つの組織の中に、沢山の「部署」が存在する。……部、……課、……係 等々。

 またその「部署」…「課」・「係」の一つをとっても、数台〜十数台の「電話器」を始め・さまざまな「設備」が置かれ…

 何より、それに合わせて(準じて)、この一番の難題・課題であるところの、「役員」・「職員」・「所員」が存在する。 

 次官、局長、所長、室長、部長、課長、課長代理、次長係長、指導員、理事、監事、参事 等々。

 『事業仕分け』において、これはもう、膨大な数のもので…政治家の不正・汚職による辞任・辞職などとは訳が違う、桁が違うような…!  

 (乱暴な言い方を許してもらえば) これを一つの「症状」に例えると…

 「もはや、手の施しようがない !」

 といった事にはならないだろうか。そう思うのは、早計だろうか。

 しかも、広い広いこの世界。ここには掲載されない、私たち庶民には関与しない? 公開の必要性のない ? 隠れた組織・団体などが、まだまだいっぱい存在するかも知れない。(そのように疑ってしまう !)
 
 他にも…さまざまな施設の新装・改装…役所・公務員を中心・専用?として設置された、店舗(売店)・住宅等々…これらと、一般社会・業界との格差。
 
 これらは、(当時の)民主党が「仕分けの対象」としたものと、同一・同系のものであるかどうかは判らないけれど。

 しかし、これだけをとっても…

 同党が、中止…保留? に追い込まれたのも無理からぬ、頷ける、膨大なものがあるように思われる。
 (同時に、これらに対する認識の甘さがあった事も否めないような…)

 
(中身の必要性はともかく)土地柄によっては、例えば小・中・高…の学校の生徒数よりも多い、旧態依然とした役所感覚の区域もあるのかも知れない。

 要は、実際に、国民のためにしっかりとその現場において機能しているかが問題だが…しかし、(私たち素人にでさえ)その名称を見ただけで早くも疑いたくなるような、組織・組織、形式・形式…の羅列であるように思われてならない。 

 これらを前にして…根本問題として考え直さなければならない難題・課題が山積しているような。 

 
郵政改革…都構想この流れとともに…恐らく、『最後の牙城』?となるであろう、この『公務員改革』 『事業仕分け』
 
 もはや、迷路に入ってしまった「事業仕分け」を、とりあえず
原点に立ち返り、この「タウンページ掲載」の官公署の一つ・一つなどをまず、事始めとし・参考にし・点検しながら…
 つまり、「市民生活の現場で機能しているかどうか」という事の前に(それら現場の状況はひとまず置いて)…また点検の速度は、それぞれ・さまざまだとしても…
 
与・野党を問わず、公・私を問わず一体となって、改めて
再スタートを切って頂きたい…いや、まず、再スタートのための準備段階に入る事から始めて欲しい…と願わずにはいられない。

 でなければ、
1000余兆円という、毎年・毎年増えて行く、この膨大な国の借金(国債発行残高)は永遠に消える事はなく、じわり・じわりと、更に・更に膨張して行くしかないだろう。

 
この改革なくして、未来なし…と、私には思われるけれど ?


 もちろん、頭からその存在を全面否定する訳ではないし、私たち庶民にはそんな能力も・考えもない。
 しかし、長い間に広がりに広がり・増えに増えて行ったであろうこれらの存在は、時代の流れ・グローバル化・科学万能(コンピューター)の現代にあって、隠されたさまざまな問題・課題が次々と暴露される時代の真っ只中で…旧態依然とした、何の思索・模索もなくこの聖域を維持して行こうとする姿勢には、もはや、どの角度から考えても賛同出来ないものがあるというのが、老若男女・さまざまな業界の人たち・心ある庶民の大方の思いではないかと、私には思われる。
 政治家にしても、こんな膨大な
「官僚の組織網」を前にして、それを統率する力量がないだけなのだ。(あの都構想さえも、バラバラに引き裂かれてしまった…!)

 
マスコミ戦争の時代にあって、海外に与えるイメージの問題にも、極力配慮すべきだ。


 原点に戻って考えてみても…

 何かあるたび・起きるたび、すぐに政治家に批判が集中するというのは(政治家までが一緒になって)、どうみてもおかしい。(役所の目に届かない、極々プライベートな・極端な例題は別としても。)
 今のような中途半端ではなく、
国民の代表であるべき政治家の環境・立場をしっかりと陰で支え、メディアによって表面化される前に、それを食い止めるのが公務としての役割なのでは? 銭・金の問題は、それら管理の如何(いかん)の結果として発生するものであり、政治家だけが罰せられるのは、どうみてもおかしい。
 当事者(政治家)にしても…そういう無防備・放任主義の環境を無意識の内に受け継ぎ・常識化されたような感覚から生まれる言動・不祥事ではないだろうか。 

 もはや現代では、
どんな立派な企業の代表であっても…

 自分の権利で勝手に金庫を開ける事は出来ない・帳簿を書き換える事は出来ない・社内設備を勝手に動かす事は出来ない…総務・管理・経理部等々の許可と責任を通さずしては、というのが常識であり、同じ理屈だ。 

 今の状況では…事の後で…政務・公務・官僚の前は素通りで、マスコミその立場に成り代わり(野放しにされた)政治家に対処(審判)するという…そんな日本の役所感覚・メディア
感覚だ。

 もちろん、政治家だけではない、あらゆる業界の基本・根底にあるのが、「公務員」。
 国家・地方
公務員の立場でもって、しっかりと国民の代表である、彼ら(政治家・企業家等々)一人・一人を尊重し・フォローし・管理する…この日本社会では、それらが逆になっているように思われて仕方がない。


 ところで最近の、「教育者」の残業問題。「介護施設」の不備・不足問題。

 彼らとは基本的には同じ立場にありながら、これらは何故、起きるのか…!? 公務としての
本当の現場が良く見えていない、という事の証しではないだろうか。現場にある公務員。机上の公務員。 

 ちなみに近年、例えば「住宅問題」(空き家問題も含め)などでさまざまなトラブルが、日本列島・あちこちで起きているようだが…
 これは、提供側にも・購入側にも、それぞれに『法例・条例…が存在する』という事を、双方が自覚していないために起きるトラブルであると思うけれど…これらについても、日頃、『省庁』はどのように認識し・指導しているのだろう ? どれだけ関心を寄せ・見守ってくれているのだろう ? 
 「住宅問題」に限らない。国民の日常生活において、どれだけ責任感をもって見守ってくれているのだろう !?


 近年多発する、
自然災害、人身事故 
 また、そんな環境を狙った…
もっともらしく装った(=彼らに同情したような)、悪徳業者の増大。

 そんな中で…自然界・人間界…春夏秋冬…何が起きようと・思われようと、びくともしない、表面をさまざまな制度で飾っただけのような、超堅牢に組織化された、
役所・官僚社会。 


 それとも…

 私たちがこの世に誕生し・人として生きて行く上で、最初に…生活の基本軸に…またその節目・節目にお世話にならなければならない、公務員。
 
今の「公務員のあり方」に、「今の若者たちの時代感覚」(=主権在民・個性の尊重)に沿わないものがあるとしたら…
 これらの中の
無駄な官公署は、時代と共に、何かの形で自然消滅(淘汰)していくものなのだろうか。自然に任せておけば良いのだろうか。 
 そんな若者たちの前にはびこる、成長(=生産・製造…自立心…)を妨げるようなさまざまな無駄な苦労(=目先の物欲・金銭欲に捕らわれた…)は、それらに気付かせるため・乗り越えるための
「分別力を養う」ために、意図的に与えられた試練なのだろうか。

 今、課題の一つである『消費税・再増税問題』などは…

 これらの
「官民格差」の中から生まれる「本当の無駄」無くし、彼ら公務員を本来の定位置に戻し、
「不平等社会」「ストレス」一つでも多く省き、改めて希望を託すという…双方(官と民)が心から納得した末に、初めて導入されるべきものなのでは。 
 
 そしてそのためには、当然、
各都道府県・自治体協力なくしてはあり得ない。
 それぞれの現地・現場の人たちが、基本線に立ち返り(=自らの立場の把握・無駄の削減)、政治家の先導の下、この
根本問題に取り組まなければ、これらの実現は
永遠に不可能・望めないものとなって行くだろう事には間違いない。
(「ギリシャ」の教訓)
 私はそのように捉えているけれど…どうだろう !?    (2016年)


 <追記> 「日本の東京」ではなく、「世界の東京」として 

 今や東京、と言えば…2020年・東京オリンピック ! そんな中にあって…

 (ホンネを言えば)私には、それ以上に深刻な問題・課題として浮かぶのが…

 (煽る訳ではないけれど) やはり、「中東問題」「
IS関係」(と、その周辺)。これらは以前にはなかった、ある年、突然浮上して来た…新しい外交課題だ。

 私たち地方に生きる人間にとっても、他人事とは思えない。

 「世界の広島」としての心構え同様、今や日本の政治環境も、「日本の東京」ではなく、「世界の東京」としての構えなくしては対応出来ないほどに緊迫した世界の実情。そんな中に立たされた、日本の首都・東京だ。

 
知事としての人格・力量はもちろん、それに加え、『地方議会』と『国会』の違いは…より具体性(=応用性・生活感)を求められるというところ?
 
 
メディアの発展によって、世界が「一日生活圏」に縮められて行く現代にあって(=一日にして、世界の事情・実情が判る)、その中には当然、
「危険性の問題」もはらんでいる。
 その現地・現場に立った、緊迫した世界の難題・課題に耐え得る心構えと使命感なくしては乗り越えられない状況といっても決して過言ではないような、このご時勢。


 その『都知事選』が、いよいよスタートした。

 都知事
はもちろん、それ以上に…
 そんな緊迫した今の地方情勢に耐え得る・代表の立場を支える、(国家・地方公務員を含んだ)スタッフ・都政体制が整えられ・発足する事を願わずにはいられない。すべてのカギは、ここにあるのではないだろうか。

 また、私たち庶民からすれば…願わく
ば、たとえ
落選した人たちであっても、その思い・才覚が同時に消え去る訳ではないのだから、引き続き、何かの形でそれらを活かし・協力して行くという、(メディアも含めた) 頭の切り替え心意気が欲しい気がする。

 話は少し逸れるけれど…


 先頃の「都知事の不正問題」と時を同じくして登場され・来日され、「世界で最も貧しい大統領」と称された、
ウルグアイ元大統領・ホセ・ムヒカさん

 どのようなきっかけで、また計らいで来日されたのか、詳細はあまり報じられなかった。(一般の)メディアではほとんど注目されなかったし、落ち着かない
今の都政では、その余裕もなかっただろうけれど。

 (良い・悪いの判断はさまざまだろうけれど)

 この
「対照的」な状況に置かれた
「お二人が、奇しくも、同時に登場された事の背景には、どんな意味合い教訓未来性が隠されていたのか…それを考えた人たち・世論は案外、多かったのではないだろうか。

 
日本の未来
…いや、日本のためだけではない…さまざまな既成概念を一つ・一つ削りながら、格差のない・誤解・反感、何より、(狭量な宗教解釈から生まれる)テロ・犯罪者を生まない・本当の豊かさを求めた世界外交』『直接外交』を目指すためにも…それを見通し・それに備えたかのような・何かの「お手本」としての立場に置かれたような、そんな天命を背負った、元大統領の来日ではなかったかと、私は踏んでいるけれど…!? (微笑)

 時代は微妙に変化しつつ、
新しい指導力が求められる時代圏に向かって歩んでいるのかも知れない。そんな中に立たされた、首都・東京なのかも知れない。   (2016年)  


  <追記> 待ち焦がれた、オバマ大統領 の 『広島訪問』

 2016年5月27日。待ちに待ったその日が、遂にやって来た。

 私たちが、
『世界の広島』としての来訪を願った、オバマ大統領広島訪問
 
 その立場によって、人々の評価はさまざまだろうけれど…理論・理屈は抜きにして…

 まず、そういう
『ご縁』を与えられる、その場に『臨む』という事自体、その条件が揃わなければ、人間の業(わざ)だけでは不可能な事だろう。

 『核兵器撲滅という目標を果たす上で、広島以上にその議論に適した場所はない。また、大統領は歴史に敬意を払うことに全力を尽くしている。広島を訪問すれば、第二次世界大戦のすべての被害者に対する強い敬意を示すことが出来る』
 と、
ルース前米国大使は仰ったという。

 (終戦から今日まで)さまざまな立場で、さまざまな人たちが訪れたであろう、この広島だけれど…

 とても自然で…
世界の広島はもとより、『日本の広島』への対応としても、十分にその使命を果たして下さった感がある。

 世界の・米国の立場という、その狭間で…
 特段の演出をするのでもなく、お国柄・自然の振る舞いによって語り・示された、
オバマ大統領その集大成としての使命を十分に示して下さったと、私は思う。 
自らの思いを「折鶴」に託して

 それにしても…被団協の方たちの存在がこんなに大きいものであり、価値あるものになろうとは…!
 
 
 坪井 直
さんを筆頭とする、この被団協の方たちのその思いが、しっかりと世界中に示されたような…そんな感動の一瞬・一瞬だった ! 恐らく、ほとんどの方たちにとっても、予想以上の場面であったに違いない。
 
 これには、本当に大きいものがあると思う。これは、永遠に刻まれて行くものとなるのであり…被団協の方たちにとっても…今日までを生き長らえて来たのは、まさしく、
今日この日・この出会いのためだった、と言っても決して過言ではないものが、それぞれの方たちの全身に溢れ出ていたように、私には感じられた。(天が 動いたのだ。)

 もちろんこれは、
集大成であると同時に、すべての始まりではあろうけれど…

 人との出逢い・出来事において、世の中に偶然は一つもないという。
 
 私たちは、
『見える授受作用』(=ギブ・アンド・テイク)はもちろんの事、このように、『見えない授受作用』によってもつながっていたのだという事を、オバマ大統領・被団協の方たちを通して、改めて教えられた思いである。 世の中、『見えない授受作用』の方が多いのかも知れない。

 
ともあれ、
素晴らしい・この日を与えて下さった、神様に、 オバマ大統領に、そして被団協の方たちに、心から、感謝の意を捧げたいと思う。


 すべてにおいて、『改正』『改革』の求められる時代。

 いつの時代にも『改正・改革案』というのは、その現状・事柄において、問題があるから浮上してくるものであり…時代の移り変わりの中で、実感から生まれるものであり、自然の要求であり・本能であり…

 自国(自分の周囲)のささやかな幸せに甘んじ…机上の空論でもって、否定・反対…否定・反対ばかりを繰り返し・唱えているだけでは消え去るものではないと、私には思われる。何も問題がなかったら、初めから「改正・改革」という言葉自体、浮かばないだろうし、また多数決で取り決めるというような、そんな単純なものではない、数の問題ではないと思う。(全国民対象の多数決であればともかくも。)

 『憲法・第九条』も同じだ。

 いや、九条こそが、『世界の第九条』として捉えられるべきであり…

 W世界から戦争をなくして行こう W

 
という、しっかりとした理念・決意の下に施行されるものであり、それを根底に置いた上での「護憲」「改憲」の理論が進められるべきものではないだろうか。

 今の世の中、すべてを世界単位で考察しなければ…第九条を掲げ・自国でどんなに戦争反対を唱えても、また世の中の経済・文化がどんなに発展して行っても、戦争がなくならない限り…つまり、世界中が戦争のための武器を捨てない限り、もはやそれは、未来性のない、一国・同盟国にしか通用しない、ファジーな(曖昧な)、意味のないものとなってしまう。
 指先にちょっと怪我をしても、体中に痛みが走る…と同じ理屈だ。いや、理屈ではなく、初めからそのような仕組みになっている。
 今後、この九条は、世界のためにどんな役割を果たしてくれる事だろう !?

 
『沖縄基地・普天間(飛行場)移設問題』にしても…

 政府にすれば、あくまで
『移設』であっても、(第九条の存在・移設理由の詳細など知ろうとしない)海外の人たちからすれば、(いや、国内でさえ、疑心暗鬼を抱く人間がゴマンと存在する中で)、これは「新たな基地の建設」であり、存在そのものが戦争を意識した「新しい戦略・防衛」としてしか映らないだろう。

 私には、(戦後の)日本人の理念・発想には、どうしても「木を見て 森を見ず」という…目先の理論・理屈、机上の空論が、あまりにも多過ぎるような気がしてならないけれど?  
 やはりこれは、
「世界大戦」による「惨劇の体験」という、トラウマと…島国という環境で、第九条によってあまりにも長い間、大国・アメリカに守られ過ぎて(=従い過ぎて)来たという…皮肉にも、そんな環境に甘んじた結果から生まれる現象ではないだろうか。
 
 護憲ではない、改憲ではない、
アメリカから自立した・世界を引き込むような、また、「海外諸国の憲法」と比較したり・参考にする程の柔軟性を持った、新しいイメージ発想の加えられた(表現された)、そんな、世界と共有したような 『日本国憲法の誕生』を願わずにはいられない。      (2016年)
  


<追記>  北のミサイル発射】と
          北朝鮮が本当に求めているもの
         
  
 日本にとっての、の「ミサイル発射問題」。
  
 「それしか方法がないのだろうか !?」

 という…!?
 
 幾度となく繰り返される、この問題とはいえ…
 自国(日本)の苦労だけではなく、やはり、相手の弱さにも心を配るべきなのではないか、と思ってしまう。

 私にはこの国が、策士・策略に長けた国家であるとは、どうしても思えない。
 
 またこの難題を、近年、極力冷静に受け止めようとする
知識人・世論も、ボツボツ、現われ始めたのではないか、という気はするけれど。

 しかし…

 これを
『家庭』に例えれば…(自国を「親の立場」とした場合)。
 相手の粗探しばかりではなく、心理学にばかり流されるのではなく、それが虚偽であろうと・真意であろうと…迷う事なく・まず受け入れ、その目的・苦労を共に思索・模索し合うというのが、
親心というものではないのか…何を目的とした行為なのかを、真心でもって問いただす姿勢。 たとえ相手(子供)の対応がどんなに熾烈な・乱暴なものであったとしても、無礼であったとしても、それを選べないのが、親の立場なのでは ? 
 双方にとって、この「プライドの問題」は大きい。一時的・主観的解決はともかく、 これなくしては(=直接対話…立場としての責任・犠牲の心)
本当の和解の道は有り得ない。

 (自ら動こうとはせず…) 
 「
に詳しい、○○氏によると…」 「この問題に対し、△△国の対応は…」
 と、直接対応ではなく、専門家にばかり・強国にばかり解答を求め、身を任せる…

 その「他人、他国任せ」にしても、儀礼的・形式的で…
わが子の悩みに応える術がなく、表面的制裁でわが身(親の立場)を保っているだけだ(カムフラージュ)それだけ甘く見られていると相手(子供)は受け止めるに違いない(=存在への軽視)これこそが、その行為を止めさせない、最大の理由である事に気付かない。相手(=日・米・韓…)の反応如何によって、こんな悶々とした・混沌とした状態が続いているのだという事を、もっと認識すべきだ。

 それとも…

 
の行動にいちいち応えていれば、世界中から非難され、「笑いのタネ」にされるのがオチ、とでも思っているのだろうか。一つの先入観(=というのはそういう国、という決め付け)に、マインド・コントロールされたような。これは大きな間違いだ。
 アメリカにしても・日本にしても…一度も、
直接対話をした事のない相手に向かって「制裁」「圧力」などという言葉が使えるだろうか。そんな権利があるのだろうか。それぞれの内政がままならない状況下で、「他国への圧力」など、通用するだろうか。
 後にも先にも「殺人は悪」である、と唱え、加害者の殺人に至った経緯などは無視する、と同じで…良くも悪くもその動機こそを知らなければ、遺族は永遠に救われない(納得出来ない)、と同じ理屈だ。
 
 (今更ながら)国家というものは、政治家のやりとりだけで成り立っているものではないという事が、どれだけ判っているのだろう。

 言葉の上の、(時の政権の)その場の勝った・負けた(=賛成・反対)で治まる政策論争ならともかく、「制裁」「圧力」というのは、「国民の生活」に直接関わってくる問題だ。
 もっと国民生活の中に入って行き、外交政策の方針・方向性(=柔軟性)への切り替えが必要な時ではないだろうか。

 それともやはり、
「勇気の問題」なのだろうか。


 とはいえ…直接交渉理想だとしても…それに超した事はないけれど…
 もはや、ここまで来た以上、すべてを専門家任せ一辺倒ではなく、マンネリ・ムードに流される事なく…

 今のこの、ハード(国家)より・
ソフト
(国民)の時代を迎えた中で…

 (
マスコミを意識した・国家同士の)表面的対立の繰り返しではなく、近隣諸国はもちろん、世界各国のそれぞれの現場の人たち協力のもと…さまざまな業界の『国民世論』
(=家族全体)にこそ目を向けるべきであり(=呼びかけ)、知恵を求めるべきであり。

 
金大中元大統領・同夫人による、への『太陽政策』アントニオ猪木さんの、また帰還した拉致家族の方たち(蓮池薫さんたち)…これらの存在を筆頭・お手本として、更に・更に広げて行く…!

 何より、そうしなければ、そのように行動しなければ…今に残された日本のさまざまな問題・課題と同様…
 「政治家、
マス・メディアは、何のために存在するのだろう ??」
 と問われても仕方のない、受身・受身、間接・間接の繰り返しとなり、すべては元の木阿弥となってしまうだろう。(相手国だけではない、双方が
自立のチャンスを失う。) 
  
 さまざまな
現場の人たちを求め・探し出し・その人たちを仲介として得た中からの『親近感』『生活感』を、しっかりと彼ら(北の人たち)に提唱し…今のような「孤立」ではなく…

 「もちろん、私たちもまだまだ完全ではない(=国民の声を・現場を隅々まですべて把握し・理解している訳ではない)。共生・共栄の道を目指して、具体的に討議・討論し合いながら、一緒に歩んで行きましょうよ。」


 という、互いの
個性尊重し合いながらの、呼び掛け、誘い掛け。
 
制裁・圧力という、中身のない、上から目線・他国任せではなく、「家族感覚」での対応が、今こそ求められる時なのでは !? (まして、母親国家と呼ばれる、この日本であれば ! )

 もはや、これこそが最も急がれる…両国だけではない…南北の統合(=親和・親交)はもちろん…世界にとっても、重要な・喫緊の課題であると、私には思われる。 
( 聖書…すべてのわざには 時があり )

 両国はもちろん、世界的基準・規模による
『協議の場』『生活の知恵』(=政治・経済の発展)を生み出すための現場を、一つでも多く設け・参加を促すという、熱意勇気(=「世界的会議の場」に誘う手立て)

 例えば、
オバマ大統領
の提唱による、「米国とキューバとの国交回復」(その後のアルゼンチンも含めた)のような。

 ちなみに、今、話題となっている、(
米国民・賛否両論の)オバマ大統領による、
『広島訪問』
 この事にしても…物事のすべては
世界単位で考察すべき、この21世紀を迎え…
 
大統領には…原子爆弾による戦後史上最大の犠牲となった、広島(長崎)。その広島(長崎)を…「日本国の広島(長崎)」としてではなく、『世界の広島(長崎)』として捉え、「核の廃絶」と共に・未来のための『世界平和』を目指した『広島訪問』を実現して頂きたい。そうであれば、少なくとも、この訪問に対して、米国民にも変化が生じ、更なる賛同者の拡大につながるのではないだろうか。


 自国の中で…自国の人間だけで相手をどんなに細かく・深く分析してみても物事は進まないのであり、何事も世界単位(家族全員)で行われなければ、絶対に前には進めないのであり…そんな時代圏にあるように、私には思われる。
 マスコミ向けの・その場を取りつくろうための…心理作戦の繰り返しばかりでは、
にとっても、自国にとっても、何の利益にもつながらない。

 心理作戦の容易さ…空しさ。 
心情作戦の難しさ故の…未来性・可能性

 この問題に限らない…大事な事・肝心な事への間接的対応・無関心・後回し…にして来た結果が、今のこの、
の・日本の・周辺国家の姿だろう。(何かと米国を意識し・頼り過ぎて来た事も含め)

 毎日のように繰り返される、老人…子供…若者たちの引き起す事件・事故。(彼らを北の立場に例えるならば)これらにつながる原因・起因も、こんなところ…曖昧な・緩慢な日本・周辺国家による義務的・形式的対応の繰り返し…にある(あった)のではないだろうか。

 何があっても・どんな試練を受けたとしても…相手(=
家族)が本当に求めているもの(国家の成長も含め)…それを探し出し・突き止める事こそが…

 
『 人類は 一家族 』

 であるという、その
目的であり、証しであり、すべてはここに帰結するという事を、肝に銘ずべきだ。
 これなくしては、どんな強健な政治家・指導者が現れても、世界平和には永遠につながらない(=武器でもって「身」は奪っても、
「心」までは奪えない)。  

 何時も周囲に
「敵」を感じながらの生活
…他国のすべてを
「敵」としたような…北の人たちが、そんな自国に満足しているとは到底、思えないし、の行為を、だけの責任であるとは、どうしても思えない。

 ズルズル・ズルズルと間接的対応を繰り返して来た
諸国にも、大いに責任がある。
 どこまで行っても切りがない・目的のない心理作戦(=心理の探り合い)はもう、この辺りで終りにして欲しい。  

 
再臨のキリストは仰った。
 『地は分けられても、民族を分けることはできません。』
 『朝鮮半島が和解すれば世界が和解し、朝鮮半島が統一されれば世界が統一されるのです。』
 

 
制裁…圧力そのスケールはさまざまだとしても。その現場の苦労は当事者でなければ判らないものであるとしても。一貫して言える事、それは…これらのすべてが逆効果であるという事だ。これらは
に限らない…I S問題」などにも通じる…子供にだって判る事。
 
 任期満了を間近に控えた、
オバマ大統領にとって…
 この事こそが
アジアの・世界の先導者として、極力・客観的立場で勧められなければならない、それぞれを自立(国家)に導く・最後の使命であると、私には思われる。

 何より、それらをしっかりと受け継ぐ、
新しい指導者が誕生してくれるだろうか…どうだろう !?    (2016年)


<追記> 東京オリンピックを横目に リオデジャネイロ・オリンピック を前にして 
 
 それぞれに、洋の東西を問わず、その国なりの事情を抱え混乱している、今のこの世界の実情。

 そんな中で…

 来る・
2020東京オリンピック!

 当時、(何かと事情が変わってきた日本)、この
東京オリンピックを世界中がスンナリと受け止め、奨励・賞賛したのには、逆に戸惑いのようなものを覚えてしまったという、この私だけれど。
 世界からは、それだけの余裕をもって(=期待を込めて)受け止められたという、天の願いであり、この
『東京』だったという事だろうか !? 

 ただ、その前に…

 
2016年・夏期オリンピックの開催地は、ブラジルリオ・デ・ジャネイロ

 
ブラジルといえば…なんといっても、リオのカーニバル

 思えば、本当に不思議な
イベントだと思う。どんな時代にお目見えしたものか定かではないけれど(1723年…?)、今世紀…というか、私には何か、オリンピックの極致のような・集大成のようなものを思わせる予感があるけれど? (微笑)

 どんな音楽が用意され、準備されて行くのやら…!? 
アテネ・オリンピックから数えて120年目という、この象徴的・摂理的節目の数字 !! なぜ、ブラジルなのか…! (ちなみに、2004アテネ・オリンピックからは、12年目!)

 そういえば、あの日本の…
『野暮』…と、『粋』…を、見事に調和させ・造り上げられた、徳島県『阿波おどり』のイメージに通じるものがあるような。人間というのは、野暮はもちろん、たとえ「粋」であっても、それだけではなかなか人目を引く事は難しい、「ヤボ・イキ」が一番、とよく言われるけれど。国内はもちろん、今では世界感覚で受け止められているという、あの素晴らしい、郷土民謡・盆踊り…

 ともあれ、
南米にとっては、初めての開催地 ! 

 
再臨のキリストの深い思いの込められた国 ・ブラジル! 

 
日本にとっても、深き・良き因縁で結ばれた国 ・ブラジル!

 こんな混沌とした、複雑な世界情勢にあって…どうぞ、
舛添東京都知事には、またマス・メディアには、この、リオデジャネイロ・オリンピックにも…同じ立場としてのご苦労を分かち合い、協力の心でもって進行させ・盛り上げて行って頂きたいと、心から思う。 もちろん、気遣っていらっしゃるだろう事は、百も承知の上で。

 そして、
東京オリンピック新たな時代・2021年に向けた橋渡し第一歩 !? 

 
両国の未来のため、世界の未来のために、来るべき、
両オリンピックの成功を心から願い、祈っています。 (2015年)


<追記> W野党が統一戦線を組めば必ず勝てるW 小沢一郎・生活の党代表

  「…そのためには、新党を作るのがベストだ。新党にしなければ意味は半減する。国民も一つの政党でないと、受け皿とはみなさないだろう。時間はないが、その気になれば難しいことではない。参加したい人が入り、選挙の時に届け出ればいい。選挙区の調整やら実務的には大変だが、決断一つだ。」 (朝日新聞・「発言録」欄より)


 と、
小沢代表は仰った。 

 思うに…

 政権を取る、取らない、の前に…野党には・野党としての役割があるのであり、大義において少しでも互いの共通点を見出し・一致団結して掛かれば(=大同小異・大同団結)、必然的に「与党の質」(=打開力)も向上する、向上せざるを得ないのであり…これこそが、国内のみならず・海外問題に対応する日本国・野党(もちろん、共産党も含めた)としての存在意義があるのであり…しかし今のような、野党がバラバラの状態では、何の意味もない気がする。まして、どんな高度な政策・改革を掲げても、土台が不安定では、実践は無理だ。 

 私たち庶民の期待は…これまでのような、形式・建前の「与・野党討議・討論」ではなく…開かれた「与党間討議」であり…また共産党をも含めた・開かれた「野党間討議」であり…特に後者の方には期待するものがある。
 
 日本共産党の躍進が囁かれるけれど…こんな、(どっちつかずの) 混沌とした日本の状況にあって、それには・それなりの存在意義があると思う、天の配慮かも知れない。

 しかし、改めて聞いてみたい! 

 それは…(思い切った事を言わせて頂ければ)
日本共産党には、今の日本の状況を前にして、本当に身を切る覚悟があるのかどうか、という事を…!? 
 本当に自党の政策を生かしたいと思えば、現状維持だけではいけない、またどんなに党員が増えようと、
未来へのビジョンが見えないのであれば、折角の躍進も何の役にも立たない。

 自分たちだけで頑張るというのは、家庭に置き換えると…
 それは一見、正道?を貫き・清貧?に甘んじ…そしてそのためには他の一切と一線を画すという徹底さが窺
(うかが)えはするけれど…
 しかし、家族に言わせると…それは親の身勝手であり、
「客観」に思えて・実は「主観」なのかも知れないし…必ずしも、家族全員の納得・成長(=個性の尊重)につながるとは限らないのでは? ということになる…!? 
 せめて、その徹底ぶりを自党内に留めず、少しずつでも
社会性・柔軟性を交えながら(=社会の現実・染み付いた常識論にも目を向け)、他の野党本音の討議・討論を重ねながら…省みる事も含め…実現化に向かって邁進(まいしん)して欲しいと、心から思う。
 
 
「持って生まれた人間の性(さが) と…「無駄」…との区別・分別。 先天と後天…先天(=自然の欲望)をも否定していないか、これらに矛盾はないのか、未来性はあるのか、という。

 もちろんこれは、
他の野党にも言える事だと思う。

 それぞれが・それぞれに大同小異・大同団結の心で、目的のためには先入観・思い込みではなく、たとえ一歩でも歩み寄るべきであり(=説得し合う)…これこそが
親の立場に立った、本当の政治(=家事・家計の切り盛り)とは言えないだろうか。
 

 
マスコミに対応するための抽象的・儀礼的な、「賛成」・「反対」…「賛成」・「反対」…の繰り返しではなく、もっとその根本内容に言及すべきだ(=なぜ賛成なのか・なぜ反対なのか)。
 
 何よりこれは、(実質)先導的立場の、
メディア自体にこそ言える事だと思う
 
結果論をまとめ上げるだけでは、与・野党の意味も・政治家の意味もメディアの意味ない気がするし、私たちに伝わってくるもの・心を動かしてくれるものは何もない。(思い切った)進行のための、もっと、アイディアはあるはずだ ! 

 多くの
海外先進国の政治体制と比較してみても…日本の政治体制自体、その根本から見直すべき時代圏にあるのではと、私は思ってみるけれど? 凝(こ)り固まった体では前に進めない、と同じ理屈で…柔軟性なくして、進歩なし !?   (2014年)


<追記> 『慰安婦問題報道』への訂正・陳謝…すべては前進のため!?        

 賛成にせよ、反対にせよ、安易な論評の積み重ねの果てに残されたものには、厄介ごとが多い。 
 
「慰安婦問題報道」に始まった『朝日新聞』の言動が、国民・世論そっちのけの中で…マスコミによって、奇妙な方向に引きずり回されている。 

 朝日新聞も、大新聞のように…当たらず・触らずを基本とし・モットーとして展開していたならば、今度のような騒ぎになる事もなかったのかも知れない。問題そのものが公開される事はなかったに違いない。

 
巨大メディアというのは…表向きにはさまざまな視点・観点…多岐・広域にわたり報道するけれど、その目的とするところは…極めて抽象的というか…どこか今一つ、ポイントが定まらない・掴めない…
 彼らにとって大事なこと。それは、物事の解決よりも、「現状維持」「視聴者・購読者維持」であり、これも一つの思想であるかのように構え…広く・浅く…をモットーとし…
 そしてそれは、その時々の政権与党の政治体制にも似たような・通じるようなものがある。

 彼らは、まず形を整え、さまざまな問題・課題をさまざまな角度から次から次へと言及・追及はするけれど、結果として、「問題の核心」には極力触れる事はなく…実践・解決・解答は出さない…といっても過言ではないような。
 (もっともこれは、大新聞に限らないけれど。) 

 そして、
開拓者に対しては…「破壊型の構造改革によって、社会秩序の安定性が崩れて行く…」と名指しし・否定し…実行の足を止めてしまう、イデオロギー・学者的発想。すべては現状維持・幅広い視聴者・購読者(組織票)維持のため?
 「メディアの発展」が、逆に改革の芽を摘む、という事もあるのかも知れない…さまざまな立場の現状を・さまざまな角度から・幅広く捉えるあまり、実践よりも イデオローグばかりを増幅させるという、皮肉。


 だから、それを前提として捉えるならば…今度の朝日新聞慰安婦問題の誤報道による『訂正・陳謝のための告白』という行為は…
 広く・浅く・現状維持…ではなく、一つの核心を突いた・ひたすら次の段階へと物事を進めて行くためであり、報道そのものが既に『お詫び』であり・『反省』であると受け止めるべきではないかと、私には思われる。

 この問題のいきさつを知らない人間が口出しする事ではない、と思う人たちも大勢いるだろう。
 しかし… 
 さまざまな方面から・さまざまな分野の専門家の人たちが登場し、議論・討論するけれど…その抗議・討議の目的が判らない、なかなか結論に至らない、まとまらない…??
 挙句には、彼らの要求する陳謝そのものの目的も曖昧なものになり…やがては、うやむやなままに消えて行く…今のこの騒ぎの中で、私には何だかそんな未来が想像される。

 「改革」とは…世論を引き寄せるためのパフォーマンスであり、単なるキャッチフレーズであり、その奥にあるもの(=本音)は、改革の実践ではなく、「政権維持」であり、「組織票を守る」事であり…

 国内だけを見ても、
「公務員改革」を始めとする…「社会保障・消費税」…「農業」…「原発」…「沖縄基地」…「拉致」…「震災」…あの「郵政民営化」さえも、(国民にすれば)未だハッキリしない、その方向性が定まらない、といったような。そんな情況と似ている。 

 そしてその精神は(=
メディアとは・政治家とは…)、良くも・悪くも後生に引き継がれ・今でも依然として続いているのであり…これが日本を支配する政界・巨大メディアの実態であり・本音であり…いつの時代にも繰り返して来た、ひたすら、『本体』『継続』を守るための対策・政策?であると思う。
 一つの課題を広く・浅く追及し…やがて人々の関心が薄れた頃、また次の難題・課題が、まるで流れ作業・流行のように浮かんでは消え・浮かんでは消え…これらに対しても、組織を守るためにはどんな批判・悪評をもいとわない、引き続き「抽象的・後手作戦」が繰り広げられ・繰り返されて行く。 (=自らの主観を守るため・客観を装っている?) (=画期的発言はすべて「事の後」。「事の前」にはしない?)

 言い換えれば…広く・浅く…というのは、 現状を守るための与党・
巨大メディア泣き所というか…宿命というか。
 (良くも悪くも…今の日本の政治体制・選挙制度では仕方ないとはいえ。) 

 (そして、さまざまな課題のその根源には…大抵の場合、官僚が潜んでいる。)


 だからそれを思うと、今度のこの「慰安婦報道訂正・削除問題」という大きな難題・課題を自ら暴露するという、その目的は…!

 それら打算のすべてを取り払い、襲い来るであろう、
情報化社会の混乱を覚悟の上で…
 
今後の日本のあり方
また韓国への正しい歴史認識への転換の要請(=広島・長崎への原爆投下昭和天皇の世界に向けた無条件降伏宣言という、国家的・世界的レベル・基準。 慰安婦問題という、部分的・集団的レベル・基準。)

 
これらへの区別・分別と、それを理解してほしいという
心情ひいてはアジアの・世界の前進・発展のためを目的とするものであり…
 反省だとか・国会招致だとか…そんな、言わば個人的要望・理論・討論が、紙面の・雑誌のトップを飾り、その方向にばかり流されていては…いずれはこの問題もその核心を外れ、多くの前例に倣
(なら)い、巨大メディア・与党政権によって、またまた、広く・浅く・現状維持…に飲み込まれ、曖昧なままに消えて行くに違いない、という…

 それを警戒し・前提のもとに実践されたものではなかっただろうか。

 間違いを認める事は辛い。しかし、その姿勢・決意は、
未来の子供たちへの影響を考えると…これは大事な事だと、私には思われる。これがなかったら、人間は・国家は成長しない

 
改めて、昭和天皇「無条件降伏宣言を思い返してみても…

 そもそも…今になって(=未だ)、この「慰安婦問題」が取り沙汰されるという事自体、元はと言えば、
『無条件降伏宣言』という価値観…それに対する、国のあり方・捉え方・メディアのあり方…その「徹底さ」(=甘さ)に問題があったからなのではないだろうか。
 韓国だけに留まらない、アジアの各国にも設置される(された)という、「慰安婦像」。日本が率先して、戦争というイメージを払拭しない限り、この問題は続くだろう。

 また折角の、国内はもちろん、世界に向けた
平成天皇の平和貢献も、なかなか容易には届かない。 


 とはいえ…この問題が勃発した時の業界・世論を冷静に振り返ってみると…!?

 その
第一声は、口を揃えたように、この朝日新聞の報道を、

 
「取りあえずは、評価する。」

 という声が多かった。私にはこれこそが、日本の
メディア・世論の直感であり・本音のように思われた。
 
世論の本音は…広く・浅く…の方が余程、始末が悪い、その積み重ねにより、このように厄介な問題が溜まりに溜まって行ったのだと…その心底では捉えているに違いない。日本人の思想観は、決して捨てたものではないと思う。(失礼!) 

 ならば…
 さまざまな抗議・酷評の嵐の中とはいえ、
朝日新聞にはその「第一声」を尊重してもらい、
前進のための糧(かて)として・その立場の重要性自覚してもらい、あくまでも目的から外れる事なく、ひたすら次に向かって邁進(まいしん)してほしい。 
 取消し・謝罪は一見、社会に被害を与え・後退しているように映るけれど、事実は全くの逆であり…!

 達観すれば…これは(この災難は)、しっかりと現場・現実を見詰めた、一つの大きな
進展であり、悪習悪癖から脱出するために与えられた、転換の時であり・第一歩であり、もっともらしい論評に惑わされてはいけないという、その裏返しであり…それを、「後退だ!」 と捉える人間こそが問題なのでは…と、私はそのように捉えているけれど
!? 

 W自民党をぶっ壊す!Wと唱えながら、国民に助けを求められた
あの、小泉さんの姿が懐かしい! これこそが、改革なのだ。     (2014年) 


 <追記> モンゴルでの 『横田夫妻、キム・ウンギョンさんと面会』 のニュースを見て

 
2014年3月10日〜14日に行われた、この「面会」とは、いったい何だったのだろう? 日・北どちらの提案で行われたものなのだろう? 私たち一般庶民には、面会に至るまでのプロセス・裏事情が全く解らない…ニュースで初めて知らされた。それも、単なる「今日一日のニュース」の中の一つとして…!?

 どんなプロセスであれ、実現となれば、せめて、
面会そのものをもっと尊重し、外務省対応ではなく、首相がどうしても無理であれば、外相・拉致担当相とか…あくまでも政治家が同行し、しっかりと現場を踏んだ対処をすべきだったのでは ?

 
小泉総理の時のように、とまでは期待しないけれど…たとえその目的がどんな内容を含んでいようと…またに対する、米韓への気遣い・日本の立場の問題があったとしても…日頃の「拉致問題の重要性」を唱える政府を考えると、今回のこの対応には、どこか違和感を覚える。
 (
現場ではなく)日本国内で取材に応じた外相のコメントも、(マスコミも含めて)極めて事務的・形式的と言わざるを得ないような印象だった…首相においては、コメントどころか、姿さえ見えなかった…拉致問題に対する政府の本音を垣間見たような気がしたのは、私だけだろうか。

 
今世紀の最重要課題の中の一つといっても過言ではない、この問題。
 何故なら…この問題がたとえ一歩でも前進すれば、
両国だけではなく「世界の情況」も変わる事には間違いない、あらゆる問題・課題が、更に一つ・一つ前進して行く事には間違いないのだから!  

 
再臨のキリストは仰った、『天国の最小単位は 家庭』 であると。

 子ども
(=長男)がどんな駄々をこね・強がっても…子どもが自分一人の力で物事を解決・回復させる事は不可能だ

 
北側の立場「子ども」に例えるのは不謹慎だけれど、復帰の歴史=やり直しの歴史(=神の意図)においてそのように位置付けられているので(=未来を背負って行く立場)、敢えて「子ども」(長男)とさせて戴いた。 

 そもそも…(振り出しに戻って考えてみても)…朝鮮半島分断は、の意図でも・の意図でも、もちろん、
日本の意図でも・アメリカの意図でもない…すべては天の意図であり・復帰(=自立)のための歴史的必然である…というところから出直さなければ物事は進まないのであり。

 (聖書における歴史的同時性の例題…「私は パロの心を わざとかたくなにする」 「神は わざとカインの捧げ物は避け アベルの捧げ物のみを受け取られた」 ) 

 自力に恵まれ・求めるものが少なければ、交渉は比較的簡単に成立するけれど…相手に期待するものが大きく・深刻であればあるほどその交渉は長引くもの、というのが現実なのでは !?

 その場・その場の勝ち負けではなく、お互いが・お互いの本質に迫るには、心理作戦には、どうしても限界がある。 
心情作戦でもって、もう一度原点に戻り、正・不正、取引き・駆引きを超えた、あくまでも双方の立場に立って見つめ直すべきであり…もはや、『拉致問題』日本側というよりも、むしろ北側にとって「より追い込まれた難題」(=戦後の大きな犠牲・後遺症)である事を推察(=事情や相手の心中をおしはかる・思いやる) 、お互いの主観ではなく、日・北(・南)の共同作業として進行させるべきではないだろうか。 (天使長国家(学問用語)アメリカにいつまでも頼っていてはいけない! 自立しなくては!)

 例えば…
北側とのしっかりとした協議により日本の自衛隊の人たちを、現地に派遣するとか…!? 
 
北・南はもとより、米・中・ロ…の実態を見ても、そのように対応出来るのは、
 
「戦争・軍隊としての性質を持たない、日本の自衛隊」
 だけではないだろうか。今こそ、
『第九条の存在目的』を改めて見直し・生かすべき時なのかも知れない。

 露骨な言い方をすれば…双方にとって、たとえどんな悲惨な・不利な結果が待ち受けていようと…「今、自分の家族が何処にいるのか? 生きているのか? 死んでいるのか? 何も分からない !?」 という情況よりは、ましだ。
 まして、たった一人の人間が行方不明になっても、全国網で捜査に当たるという…人類は一家族…と云われる、こんな現代であれば、尚更だ。 ( 一人は万人のために 万人は一人のために )

 今にして思えば…さまざまな理論・理屈よりも…
「金正日総書記と直接面談した、小泉さん」…は、やっぱり、凄いなと思う! 
 それを決意された、瞬間の思いとは何だったのか…もっとも、これはご本人に聞いても解らないものなのかも知れない。
神のみぞ知る。すべての回答は、そこに隠されているに違いない。
 
(は理論・理屈を超える。思いがすべてを左右する。 心がなければ・天は動かない。) 

 家族というのは、有利だとか・不利だとか、権利だとか・義務だとか…を超えた存在ではないだろうか。 

 裏事情の解らない、私たち庶民の能力では、こんな抽象的な提案しか出来ないけれど……。   (2014年)


<追記> 田中文科相の「3大学新設不認可問題」に対するマスコミの姿勢

 もし、
田中文科相が「不認可発言」をしなかったら、この問題は、官僚の間で形式的に・事務的に処理され…世論はもちろん、中央政府にも・マスコミにも、その目に触れる事はなく、恐らく、不認可のフの字も知る事も・考える事もなかったに違いない。

 にも拘らず…
マスコミは・野党は(註・自民党)、いつもながらの後手・後手作戦でもって連日報道のトップに掲げ、騒ぎ立てている。
 少なくとも私たち心ある世論には、
田中文科相の不適切発言だとか・あのパフォーマンスには、今さら、何の抵抗も感じないし、不快感など抱かない(ごく当り前の言動であり・あの外務省批判の再現であり・天命であり…!)。

 むしろ、大学設置・学校法人審議会?という…聞き慣れない? 政府には関与しない? まるで文科相よりも上席に置かれたような立場で…
マスコミの援護を受けながら取材に対応するその姿の方に、よほど違和感というか、危惧のようなものさえ覚える…! 

 そもそも、(まるで
大震災などなかったかのような)今のこの深刻な日本の状況に逆行した、この大学設置・学校法人審……って何だろう!? 何故、こんな問題をすべてが出来上がった時点でもって、申請(要望)などするのだろう? 認可するのが常識ならば、申請するその意味も・真意も解らない!? 民営機関であれば、考えられない言動だ ! 
 マスコミ
・野党は何故、未だそういった根本的課題に気付かず、触れようとはしないのだろう !? 

 これも
官僚主導オンパレードの中の一例であり…ほんの一角?   (2012年)  


          

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